≪5月≫ 鯉は泳ぐ、皐月(さつき)の空に

ねりま歳事記

八十八夜

 「夏も近づく八十八夜、野にも山にも若葉が茂る」小学唱歌にうたわれた八十八夜は、日本の暦のみに記す雑節(ざっせつ)である。旧暦の太陰太陽暦は、月の満ち欠けによる12か月(約355日)を1太陽年に合わせるため、3年にいちど閏月(うるうづき)をおいた。当然、暦日と季節が1か月も食い違うことが起こった。そこで一年の季節を正確に知る必要から補助的に設けた註が雑節なのである。雑節にはこのほかなじみの節分・彼岸・入梅・半夏生(はんげしょう)・二百十日・土用などがある。しかし、現行の太陽暦では暦日と季節が毎年一致するので、このような註を記す意味はあまりなくなった。
 八十八夜は立春から数えて88日目にあたり、今の暦の5月2日ころになる。ちょうど、春が終り夏にかかる境目で、俗に「八十八夜の別れ霜」と言う。戸外で植物を育てたり、種をまいても霜の心配がない季節となるのである。また、八十八をつめて書くと、米の字の形になるので、このころから苗代を作り、稲の植付の準備を始める。
 五月の異名を皐月(さつき)と言うが、サは稲とか田の神という意味を含んでいる。旧暦5月は稲の月、早苗は稲のなえ、早乙女は田の神に仕える乙女、五月雨は稲に水が垂れるさまを指しているという。
 

 昔は、区内の石神井川、白子川、中新井川、田柄川の流域で水田が営まれていた。八十八夜のころになると、どの苗代でも籾(もみ)種がまかれ、それが成長する6月中・下旬には本田への田植が行われた。田植の時はちょうど畑で麦の刈入れや夏大根の収穫の仕事と重なった、また養蚕の最も繁忙な時季でもあった。そのため水田と、畑作あるいは養蚕を兼業する農家では田植を省略して5月中に本田へ直接、籾種をまくことがあった。直蒔(じかまき)とか摘田(つみだ)と呼んでいた。種をつまんでまくからである。摘田はもちろん、練馬に水田があったことを知る人も少なくなった。

端午の節供

 端は始め、端午は月の始めの午(うま)の日という意味である。だから5月に限ったわけではなかったが、上巳(じょうみ)の節供が3月3日に固定したと同じ事情で、午(ご)が五に音通するところから5月5日となったというのが通説である。
 陰陽説では奇数が重なる日は陽気が強すぎて良くないとされ、特に5月5日は一年中で一番強い日と考えられていた。そのため、菖蒲や蓬(よもぎ)などの香気の強い薬草を門口とか屋根にかけて、悪霊や邪鬼を払ったのである。この日、菖蒲湯に入るのも同じ理由であるし、ちまきを笹の葉に包むのも、笹や竹が悪魔を払う力を持っていると信じられていたからである
 練馬でも昔から、この日のために4月のうちから庭に鯉のぼりや吹流しを立て、家の中では床の間に五月人形を飾り付ける。そして当日はちまきや柏餅を作って祝うのである。五月人形は冑(かぶと)や武者人形を、男児が生れたとき親元や親戚知己などから贈られる。「恋は苦労が先に立つ」と言って、鯉のぼりは黒い真鯉を上に、赤い緋鯉を下に掲げることに決っている。鯉のぼりを上げない家では鍾馗様などの内のぼりを座敷に飾ることが多い。
 端午の節供は江戸時代から菖蒲を尚武に通わせて、男児が丈夫に育つことを願った男の節供と解されてきた。が、それは3月の雛祭りを女の節供とするのに対照してのことであろう。埼玉県の農村部には節供の前の晩を「女の家」とか「女の屋根」と言って、女が葺籠(ふきごも)りをする古い風習があった。葺籠りとは、菖蒲を葺いたあと、女は仕事をやめて、斎食(さいじき)することである。とすると、端午の節供は男の節供に限ったものではなかったのである。
 いずれにしても端午の節供の本当の意味は、間もなくやってくる本格的な農繁期に備えて、悪魔の退散を祈り、家族全員の健康を願う行事であった。

5月のこよみ
 2日 八十八夜
 3日 憲法記念日
 5日 こどもの日、端午の節供
 6日 立夏
 10日 愛鳥週間はじまる。練馬でもホトトギスの声が聞かれる

 このコラムは、郷土史研究家の桑島新一さんに執筆いただいた「ねりまの歳事記」(昭和57年7月~昭和58年7月区報連載記事)を再構成したものです。
 こよみについても、当時のものを掲載しています。

写真上:田植え(中村橋 昭和28年)
写真下:農家の鯉のぼり(貫井 昭和31年)