46 大正ごろの千川通り練馬駅付近

古老が語るねりまのむかし

下島 光治さん(明治42年生まれ 練馬在住)

<珍しかった果物屋>

 私の父親は農家の出身ですが、農業が嫌で家を出て、千川通り沿いに果物や駄菓子を売る店を出しました。私が生まれる前のことです。
 私が物心ついたころは、まだ鉄道(現・西武池袋線)も電灯もない時代で、どこのご老人か、頭にチョン髷(まげ)を付けて杖を突いて行く姿を時折見かけました。千川通りは「清戸道(きよとみち)」の一部でもあって、馬車(後には牛車も)や、手引の荷車に野菜などを積んで往来する人も結構あり、この辺りには古くからの店が何軒か並んでいました。小料理屋などもあったのです。
 そんな中で、父親の店は珍しかったらしく、周辺の村の人も買いに来ましたし、富士山参拝などに出かけた人がここまで帰って来て、家や近所へのおみやげに果物や駄菓子を買い込んで行くといったこともありました。
 果物は神田の市場(当時は万世橋 現・千代田区神田須田町)へ仕入れに出かけるのですが、仕入れた品物は近所の馬力屋(ばりきや =輸送業)さんに頼んで馬車で運んでもらっていました。

<田んぼで苗床にたかる蛾を捕る>

 大正5年に豊玉尋常高等小学校(現・豊玉小)に入学しましたが、当時の学校は平屋の草葺きで、障子があったため穴などを開けて遊んだものです。
 学校には、近くの正覚院のご住職が先生として来ていましたが、この方は、私が早稲田実業学校を受験するときにも付き添っていただき、ずいぶんお世話になったものです。
 当時、私の家の近くからは南蔵院の森や周辺の屋敷林がよく見え、その向こうに富士山も拝めました。南蔵院の南にあった田んぼには、1年に1度、先生の先導で出かけ、農業のお手伝いとして苗床にたかる蛾を捕ったりしました。

<水車が回っていた千川上水>

 千川通りには、わきに千川上水が流れており、ウグイ、ゲバチ(=ギバチ)、ナマズなどが泳いでいました。水は子どもの胸の高さくらいまであり、川へ入るのは禁じられていましたが、私たちは内緒で入り、泳いだり、魚を捕って遊んだりしたものです。
 大正4年の大正天皇の御大典を記念して、土手に桜とカエデが植えられましたが、それ以前は萱(カヤ)などが繁る小川で、川に面したお店では、川の上に木の板を渡して橋にして、そこから出入りしていました。
 千川上水は精美堂(文具店)さんの所までは通りの南側を流れていましたが、その東側で本流は北側に移り、南側には支流がそのまま流れていました。この支流は今の練馬消防署の東側にあった水車にかかり、その余水が水車の先で北側に流れて再び本流に戻される仕組みでした。水車を動かしていたのは北島さんという方で、米の精白や小麦の製粉などをしていました。水車はその後、太平洋戦争中に止まってしまったようです。

46 大正ごろの千川通り練馬駅付近

聞き手:練馬区史編さん専門委員 亀井邦彦
平成4年11月21日号区報

写真上:豊玉小学校校舎(昭和11年)
写真下:千川上水 (昭和27年 豊玉北5丁目 練馬消防署北側 ・・・右端上に練馬消防署の望楼が見える)