47 富士見高等女学校に通ったころ

古老が語るねりまのむかし

島本 ハルカさん(明治44年生まれ 春日町在住)

<生徒は全国から集まった>

 私は九州で生まれたのですが、小学校を出て師範学校に入りたいと言っていたところ、東京の下落合(新宿区)で助産婦をしていた年の離れた姉が、私を東京へ呼んでくれることになりました。大正14年のことです。結局、師範学校ではなく、中新井村にあった富士見高等女学校(現・富士見高等学校 中村北四丁目)に入学することとなりました。
 この学校は大正13年4月に開校したばかりで、校舎は平屋の木造でした。ほかに2階建ての生徒用の寮が2棟あり、これもやはり木造でした。遠方から入学した生徒がここに寄宿していたのです。
 生徒は、ほとんど全国から集まって来ていました。私は昭和4年の卒業(学校は4年制)ですが、同期生の名簿を見ると、合計162名のうち、東京以外から来ていた方が65名いて、遠い所では新潟、秋田、岩手、福島、宮城、兵庫、島根、さらに朝鮮半島や台湾から来ていた方もいました。東京府内で地元の方は、上練馬村4名、下練馬村6名、中新井村4名、石神井村2名、大泉村2名でした。

<体操は襷(たすき)、袴(はかま)で>

 私は下落合の姉の家から通いましたが、最寄りの駅は東長崎で、そこまで20分ほど歩き、当時2両編成だった武蔵野鉄道(現・西武池袋線)に乗りました。池袋から来る電車には、農家の方と思われる人が何人か乗っているほかは、武蔵高校(現・武蔵大学)や富士見高等女学校の生徒がお客の大半でした。
 中村橋駅までの車窓の風景はほとんど広々とした畑でした。中村橋駅ができた当初はミカンの木箱か何かを並べてホームにしたような話を聞きましたが、私が通っていたころはちゃんとしたホームが1本あり、両側に電車が止まる仕組みでした。
 毎日のお弁当は自分で作り、着物に袴、それに革靴といういで立ちで出かけました。授業は一般の教養課目のほかに、作法だとか、裁縫、料理などの家事実習といったものがありました。
 グラウンドやテニスコート、卓球台などもあって、体操の時間には着物に襷がけ、袴に運動靴というスタイルで臨んだものです。

47 富士見高等女学校に通ったころ

47 富士見高等女学校に通ったころ

<美しかった千川上水沿いの桜並木>

 帰りは、ちょうどよい電車がなければ、家まで千川通りを歩いて帰ったものです。千川上水の土手は桜並木で、美しい水面に桜の花が映えていました。練馬駅前の通り沿いには何軒かの店が並んでいましたが、女学生相手といったような店はありませんでした。桜並木が最も美しかったのは、武蔵高校の前辺りだったと思います。
 いつでしたか、大泉村に東京商科大学(現・一橋大学)が移って来ると聞いて、もしかするとすてきな学生さんに出会えるか、と胸をときめかせたものですが、この移転話が流れてしまったと聞いて、がっかりしたことを覚えています。

聞き手:練馬区史編さん専門委員 亀井邦彦
平成4年12月21日号区報

写真上:富士見高等女学校での作法の授業(昭和4年)
写真下:富士見高等女学校での体育の授業(半輪体操)(昭和4年)