45 区内に残った最後の棒屋

古老が語るねりまのむかし

井口 平蔵さん(明治43年生まれ 関町南在住)

45 区内に残った最後の棒屋

<天秤(てんびん)棒や鍬(くわ)の柄を作る商売>

木材を削って、天秤棒や鍬などの柄を作る商売を「棒屋」といいます。昔は村の近在には必ずあったものでしたが、今は区内では私の家1軒だけになり、都内でも数えるほどになってしまいました。

<父の店が繁盛していたころ>

 もともとは、私の母の兄が今の南大泉の富士街道沿いに店を開いていましたが、所沢から仕事に来ていた父が母と結婚し、養子になった後に、田無の青梅街道沿いにも新たに棒屋の店を出すことになりました。
 父の店は繁盛し、若い衆も10人ほど働いていました。その中には木挽き(こびき =大木を裁断する人)や木こり、馬方さん(=馬に荷を引かせて運ぶ人)もいて、材木の切り出しから、商品の運搬までを手がけていたものです。材料は近在でいくらでも手に入った時代です。
 私は15歳のときから父に仕事を仕込まれましたが、父の教えは厳しくて、私などはお弟子さんたちの前で、ことさら、びしびし叱られたものでした。初めて天秤棒を作ったときに、左右対称に見事にできたと喜んでいると、父がそれを水を張った入れ物の中に入れろと言います。すると、一方が深く沈んで傾いて浮かびました。1本の棒でも、木の根元に近い方の身がしまって重くなっているためで、根元の側を余計に削らなくてはバランスが取れないという道理でした。

<注文される品物の移り変わり>

 私は昭和13年に独立し、現在の関町南に店を構えました。
 初めのころは、昔からの天秤棒や鍬、あるいは杵(きね)など、農家からの注文が中心でした。また、天秤棒は築地の魚河岸にも卸すようになりました。
 戦時中には軍隊の依頼で駒場の農場から馬車1台分の鍬を持ち込まれ、修理するようにいわれ弱ったこともありました。戦後は建築現場で使う掛矢(=大型の槌(つち))とか棟上げに使う長柄、トビの柄、地固めに使うイチョウという「よいとまけ」の滑車、土固めのタコなどが多くなりました。イチョウなどは世田谷のボロ市に今も私だけが出しています。
 その後は、学校給食や魚河岸で使う大シャモジや大スリコギなどの注文も入り始めました。ほとんど身一つで始めたわけですが、結構繁盛するまでになりました。

<今でも手作りで>

 昭和30年ごろまでは、区内に同業者が7軒ありましたが、つぎつぎに辞めていきました。仕事が減ったのと、材料をそろえるのが難しくなったからです。
 ものによっては、カシやケヤキなどの木の種類を選ぶ必要があります。私の場合には、新潟県で材木屋をしている親せきがあったおかげで、何とかよい材料をそろえてこられました。これを八王子の製材屋で厚手の板状にしてもらい、3年置いて使うわけです。この間に日なたで裏表を干し、「ひび」や「そり」を見届けます。後は、簡単な機械を使うだけで、一つ一つ手作りの伝統を守って仕上げていきます。
 手作りでないと本当によいものはできません。

聞き手:練馬区史編さん専門委員 亀井邦彦
平成4年10月21日号区報

写真:棒屋さんの仕事場(平成4年)