44 豊玉の農作物の移り変わり

古老が語るねりまのむかし

金子 定生さん(昭和2年生まれ 豊玉南在住)

44 豊玉の農作物の移り変わり

<ビール麦の導入者>

 豊玉の地域は、戦前の区画整理のころまでは「中新井」といわれ、南側の中新井川沿いは田んぼ、そのほかは大半が広い畑地でした。田んぼではもちろん米を作りました。畑では夏場に練馬大根やそのほかの野菜、冬から初夏にかけては一面の麦畑になりました。亡くなった父親の話では、この辺りで練馬大根を盛んに作るようになったのは日清・日露戦争あたりからだそうで、当時、家でもタクアンにして500樽ほど作っていました。
 わが家で最も多く作ったのは、何といっても麦でした。中でも大麦が一番多く、自家用の食糧を取り分け、余った分を売りました。つぎに多いのが小麦で、これはほとんど売り物です。そのほかにビール麦も作りました。これを練馬の地域に導入したのは祖父の丑五郎で、明治時代に作ってビールの会社に売ったのが最初でした。金子種という品種名も残しています。

<ゴボウの種を売る>

昭和8年以降に練馬大根は不作になります。そのころ父親の定七は滝の川ゴボウの品種改良に熱心になり、この種子を売り出しました。どういう伝手(つて)があったものか、九州方面からも注文が入り、その都度、種を袋に入れて小包にし、郵送していました。評判のよい種でしたが、その後戦争が始まって郵便が思うように届かなくなり、結局やめてしまいました。

<作物の移り変わり>

 昭和の初めごろ、豊玉周辺では夏の野菜を多く作るようになったようです。煮物用大根やスイカも作り始めています。また、区画整理(昭和16年5月に終了)でそれまでの水田が埋め立てられ、当面は畑になったことから、ここに陸稲(おかぼ)などを随分作りました。
 戦時中は穀類中心の供出割り当てがきて、麦類のほかにサツマイモをかなり作りました。苗は、所沢や川越方面まで自転車で買いに行きました。ジャガイモも作りました。戦時中から特に終戦直後にかけては、こういった作物を都心から買い出しに来る人が大勢いました。
 昭和30年ごろは、キュウリ、ナス、トマトなどの園芸野菜、その後40年代半ばにかけては、芝を作ったこともあります。芝は雑草が生えるため、近所のおばあさんたちに頼んで雑草を取ってもらいました。芝は1反(約10a)当たり10万から15万円で芝屋さんが買いに来ました。そのころはゴルフ場が盛んにできていたのです。同じころ、ツツジやツバキなどの植木も作り、苗は安行(埼玉県)まで買いに行きました。できた植木は植木屋さんが買いに来るのですが、折からの住宅建設ラッシュで、庭木に利用されたのです。
 30年代半ばごろから、この辺りも建設工事が盛んになり、畑を材料置き場などに貸すことが多くなりました。40年代半ばごろに両親が病気になり、その看病もあって家では畑作りをあきらめました。

聞き手:練馬区史編さん専門委員 亀井邦彦
平成4年9月21日号区報

写真上:ビール麦「金子ゴールデン発祥の地」碑(平成23年 豊玉南2丁目15-5 豊玉氷川神社内)
写真中:金子ゴールデンビール
写真下:芝づくり風景(昭和41年 大泉学園町)