37 下石神井にあった製糸工場

古老が語るねりまのむかし

本橋 高司さん(明治44年生まれ 下石神井在住)

<区内にあった大規模な製糸工場>

私は、下石神井四丁目に住んでいますが、この辺り一帯は、大正の初めごろまで、代々、本橋勝右衛門を名乗った人の大きな屋敷があったところです。
 本橋家は、江戸時代からの下石神井村の豪農で、菜種油やゴマ油など、油の製造でも知られていました。屋号も「油屋」といっていました。
 明治の初めごろの当主は、幼名を寛成(かんせい)といった人で、当時の行政区で第八大区(豊島郡、多摩郡の一部)の長を務め、11年ごろに南豊島郡(現・新宿、渋谷の区域周辺)の長を、さらに、明治15年~19年ごろには北豊島郡(現・荒川、北、豊島、板橋、練馬の区域)の長を務めた人でした。このような家でしたから、付近の若い娘さんが行儀見習いに行ったりしており、後のことになりますが、私の姉も針を習いに通っていました。
 勝右衛門(寛成)さんの長男は、幼名を忠蔵(ちゅうぞう)といい、先の見える人だったらしく、明治14年に、屋敷の敷地内に「東京同潤社」という大規模な製糸工場を作りました。

【注】東京同潤社(資本金3万円、120人規模の器械製糸工場)は、外国貿易をめざしていたため、東京府も注目していたが、不況や天災などの不運に見舞われて明治17年に倒産した。

<千川上水に工場の遺構が>

 東京同潤社の工場は、私が生まれたころには、既にありませんでしたが、工場には、千川上水の水が引かれていたそうです。その水の取り入れ口かどうか分かりませんが、上久保橋のたもとに千川上水の土手の淵が深くえぐれたような所がありました。あるいは、そこには水を流す樋(ひ)が埋められていたのかも知れません。この上水も昭和40年ごろには暗きょとなってしまいました。

<工場の跡地は分譲住宅に>

 勝右衛門(忠蔵)さんの家族は、大正2年~3年ごろ東中野の方に移って行き、屋敷の跡は、ずっと畑地となっていました。
 昭和2年~3年ごろ、今の下石神井4-6~20番地にかけて整地が始まり、分譲住宅が建ちました。当時、本橋家の屋号にちなんで「油屋住宅」と呼んでいましたが、石神井地域では、これが最初の分譲住宅ではないかと思います。
 そのころ、ここに入居した人には、軍人や、「少年倶楽部(くらぶ)」の編集者がいました。その後になって、彫刻家の伊藤五百亀(いおき)さんや、絵本作家のいわさきちひろさんが住み、また、劇団・東京芸術座も置かれています。いわさきちひろさんの住居は現在美術館になっています。
 当時、住宅地の中には現在の石神井消防署の西から流れてくる細い川があり(現在は暗きょ)、付近はシマッポリと呼ばれる湿地帯でした。雨が降ると水があふれてしまい、ずいぶん困ったものです。

聞き手:練馬区史編さん専門委員 亀井邦彦
平成4年1月21日号区報

写真:千川上水改良工事の様子(新青梅街道 下石神井1丁目 昭和40年)