38 練馬大根品種改良

古老が語るねりまのむかし

渡辺 正好さん(大正2年生まれ 東大泉在住)

<大泉漬物組合>

 私の祖父は、江戸時代末ごろ、たくあん漬けを江戸に売りに行っていたそうです。それが、明治維新の戦争で、「江戸が壊れた」と言われるようになり、明治4年ごろには川越へ大八車で出荷したということです。ここ東大泉の近在から川越へ売りに行った例は、ほかにはほとんどなかったと思います。
 明治のころ、この付近は養蚕とお茶作りが盛んで、練馬大根を作る農家は少なかったのですが、大正末ごろからだんだんと増え、ことに昭和初めの世界恐慌で養蚕から大根に切り替える農家が続きました。たくあん漬けも、このころから盛んになりました。
 初め、たくあん漬けは、家によってまちまちの値段で出荷していましたから、随分安く買いたたかれた家もありました。そこで、私の父親の渡辺徳右衛門が中心になり、昭和8年ごろに大泉漬物組合をつくり、その組合で出荷や値段の調整を行うようになりました。後には、鹿島安太郎氏や小林辰五郎氏らと共に、周辺の地域を合わせて東京漬物協会に発展させています。
 第二次世界大戦が始まって、漬物も供出の義務を負わされることになりました。そのころ、大泉学園駅には組合の倉庫があって、しょう油樽に詰めたたくあん漬けが積まれており、それが貨車で大陸の前線向けに出荷されて行きました。

<品種改良に努める>

 昭和8年の大干ばつで、大根は大きな被害を受けました。特に、石神井・大泉地域に比べ、練馬地域の被害は著しいものがありました。その後も、バイラス病が発生したりしたため、東京府農事試験場では、こうした病気の解明に乗り出しました。この時には、上練馬の鹿島安太郎家、上石神井の本橋栄助家と共に、私の家でも試験用の畑を提供し、また委託試験を引き受けています。
 そして、大根バイラス病の媒体になっているといわれるアブラムシや大根心食虫の生態が熱心に研究されました。
 私も父親と一緒に、こうした研究に取り組むことになりました。その結果、アブラムシはウリ類やダイコン類の十字科植物に好んで付くこと(そのころには、キュウリ、シロウリなどを作る農家が増えていた)、その被害が7月と8月に集中していることなどが分かりました。
 そこで、被害の発生する時期を避けて作付けできるよう、大根種の品種改良を重ねた結果、「名称登録第八号早太り練馬」という品種の開発に成功しました。
 しかし、練馬地域では次第に大根をあきらめ、キャベツなど、ほかの作物への作付け転換が進められていきました。
 戦後、大泉の方でも大根作りは衰退し、タクアン工場も埼玉県や群馬県に移転し、練馬大根の作付けそのものもそちらの農家に委託することになりました。
 けれども、練馬大根種は今なお生き続けており、遠くは宮城県、熊本県、鹿児島県などでも作られています(練馬でもその伝統が一部の農家で守られており、区の育成事業も進められている)。

聞き手:練馬区史編さん専門委員 亀井邦彦
平成4年2月21日号区報

写真上:茶摘風景(昭和42年)
写真下:第1回練馬大根引っこ抜き大会(大泉町付近農地 平成19年)