36 副業で飼ったブタ

古老が語るねりまのむかし

見米 秀綱さん(大正12年生まれ 東大泉在住)

 <大根は養蚕の後盛んに>

 私の住んでいる辺り(東大泉)は、昭和初めごろまで養蚕が盛んでした。私の家でも、屋根に吹き抜けのある中二階で蚕を飼っていました。また、近くに藍(アイ)を作る家もあり、隣の親戚の家では繭と藍玉(藍の葉を腐植させて玉に固めたもの。藍染めの原料)の仲買をしていました。繭は小金井や村山あたりまで買い付けに行き、日本橋の業者に売っていました。この繭が、八王子や栃木の足利に出荷されていたようです。
 この養蚕も、昭和初めの生糸の暴落(世界恐慌)がきっかけでだめになり、それから練馬大根を作る農家が増えました。クワの木を抜いて大根畑にしたのです。

<食糧増産で米作り>

 私の家は白子川の比丘尼橋の所に田んぼを4反歩(約40a)ほど持っていました。あまりよい米はできず、昔はそれほど力を入れてはいませんでしたが、昭和10年ころ食糧増産が言われ出して、白子川沿いにもコンクリートで堰(せき)ができ、ここから用水に水を引いて米を作る農家が増えました。
 私の家では田んぼの一角に苗床を作り、そこで育てた苗を田んぼに植えました。その前の代かき(しろかき =土をならす作業)のときには、土支田の方から馬を使う人を頼みました。馬に犂(すき)を付けて耕作するわけです。1反当たり1円50銭か2円ほど手間賃を払いました。
 田んぼには水を張って下肥をまくのですが、その下肥を売る人がいました。日を決めて頼むと、必要な量だけ馬車で運んで田んぼまで来てくれます。この人は農家でもあり、朝には野菜を市場に運び、帰りに新宿辺りで下肥をくみ取ってくるのです。このため、朝は空の肥桶(こえおけ)40本を2段にして馬車に並べて、その上に野菜を積んで出かけていました。

<養豚は大切な副業>

 この辺りの農家では、たいていブタを飼っていました。私の家でも10頭ほど飼いました。ブタはなんでも食べますから、けっこう残飯で飼えますし、大切な副業にもなっていました。
 石神井の方の肉屋さんがブタの仲買をしていて、この人に頼むと仔ブタを持ってきます。1頭3円くらいで買って、8か月ほど育てて、またこの人に売るのです。8か月を過ぎると肉が固くなり、いい値で売れません。
 庭先でブタの胴体にロープを結わえ、大人2人で棹秤(さおばかり)を棒でかついでブタを釣り上げて目方を量ります。値段は目方で決まるのです。8か月のブタはだいたい24貫~25貫(約90㎏~94㎏)くらいになり、80円ほどの値が付きます。大きいものでは30貫(約113㎏)にもなって、100円で売れるものもありました。ブタは利口で、悲しがって暴れるものもいました。
 肉屋さんはこれを市場に持って行って仲買業者に売るのです。その肉の一部を届けてくれましたが、どうにも食べられませんでした。

聞き手:練馬区史編さん専門委員 亀井邦彦
平成3年12月21日号区報

写真:全薬橋から清掃工場方面の眺め(昭和34年)