35 豊玉の花作り

古老が語るねりまのむかし

磯村 春夫さん(明治42年生まれ 豊玉北在住)

<祖父は幕臣だった>

 その昔、豊玉の地域は「中新井村大字中新井」といわれていて(昭和7年まで)、私の家がここへ移って来たのは祖父の代でした。
 祖父は幕臣で、水道端(現・文京区)に屋敷がありました。幕末ごろ、役目で2年ほど樺太(現 サハリン)に出向いたこともありました。明治維新で幕臣の身分を解かれ、どうするかというときに、家で中間(ちゅうげん 召使) をしていた人が中新井村の出身だったため、この人に中新井の土地を世話していただき、ここへ移って来たわけです。
 祖父はここで寺子屋を開いたそうです。その影響か、父は後に中野の江古田で小学校の教師になりました。戦前には豊玉の区画整理にも携わっています。

<花作り65年>

 私は子どものときから花が好きで、園芸学校に進みました。学校を出て、兄と2人で花作りを始めたのは、大正15年のことです。家の庭に杉の大木があったのを切ってフレームを作り、油紙を張って小さな温室をこしらえ、そこで、ツツジ、テッポウユリなどの切り花や、サクラソウ、サイネリヤなどの鉢物を始めたのが最初でした。
 そのころ、花作りを専門にやっていたのは、この近在では中野の深野さんの芳花園がありました。そこでは、大正初めごろから温室を作っていたようです。また、今の氷川台にある氷川神社裏辺りの島野さんも知られていました。
 私の家も、最初は野菜作りと並行して花を作っていたものです。花作りに自信がついたころに戦争で中断されたりしましたが、戦後になってダリア、ユキヤナギ、ツツジといった切り花から、シクラメンなどの鉢物中心に移行し、各種の花を作るようになりました。温室もガラスのほかにビニールも使うようになり、花作りをする農家も増えました。

<農家の副業として>

 花作りといえば、江戸時代から「谷中のアサガオ」「大久保のツツジ」などが、江戸の近くで作られていましたが、練馬の方でも農家の副業として、エゾギク、ベニナデシコ、ツツジなどは、早くから畑の一角で作られていました。これらは武蔵野の火山灰土に合っていたようです。
 花は、下谷、谷中の方から仲買が来て、個別に値段を決めて買って行ったようです。種や苗は種屋から買うのですが、種屋は板橋や巣鴨の中仙道沿いにありました。特に、とげ抜き地蔵の辺りの種屋は有名でした。私のところは池袋にあったヤマト種苗という会社から買っていました。
 長命寺の植木市や、和光市にある吹上の観音様の植木市などは、もともと周辺の農家の副業と結びついていました。これも埼玉県の安行などから植木屋さんが売りに来たのが始まりではないかと思います。

35 豊玉の花作り

聞き手:練馬区史編さん専門委員 亀井邦彦
平成3年11月21日号区報

写真:花つくり(平成3年)