34 豊山の原(ぶざんのはら)と千川上水

古老が語るねりまのむかし

嶋岡 且人(かつと)さん(明治38年生まれ 旭丘在住)

<陸の孤島>

 私が勤めの関係で、当時の日本橋区(現・中央区)から、板橋区だった練馬に移って来たのは昭和12年でした。
 そのころも、都心から武蔵野鉄道(現 西武池袋線)沿線などに移り住んで来る人たちがいました。都心(旧東京市内)に住んでいた人たちの印象では、練馬は、一面に畑が広がっていて、人は少なく、文化的施設もほとんどないといわれていて、まるで陸の孤島のようなものでした。
 当時は、男子が20歳になると徴兵検査というものを受けることになっていましたが、都心の若者は身体が弱く、甲種(※)合格者が少ないけれど、それを練馬の若者がカバーしてくれているといわれたものです。これも、都会の者の傲慢(ごうまん)さが言わせたことなのでしょう。
 一方、練馬の人が都心へ出かけるときには「東京へ行ってくる」と言い、都心は別の世界と感じているようでした。
 けれども、当時の練馬は、武蔵野の風景を残し、自然は美しく、空気も澄んでいて、それに、情に厚い練馬の人たちの心にふれることができ、私はここに住んで本当に幸せだったと思っています。今では、私の第二のふるさとになっています。

※体格、体力が最も優れている等級

<豊山の原>

 今の旭丘中学校や練馬総合病院のある辺り一帯は、豊山の原(元 豊山中学校グラウンド)と呼ばれた草原で、戦時中は、警防団や女子挺身隊の訓練の場となっていて、私はその指導に当たっていました。
 私の家は、旭丘小学校と西武池袋線との間にありますが、ここに移った当時は、周辺は麦畑で、その中に4軒の民家がありました。そこには、木立や竹藪もあって、スズメが毎日来て、また、春先にはウグイスも来て美しい声で鳴きました。もっとも、野ネズミやヘビ、トカゲ、蚊などには、随分と悩まされたものです。
 近くの能満寺(旭丘二丁目)の森は山のように見え、そのすぐ先の谷間には田んぼもあって、そこでは春になるとオタマジャクシが泳いでいました。

<千川上水の水は飲料水>

 晩秋の春日町、高松、田柄、土支田辺りの練馬大根の収穫風景には、壮観なものがありました。ただ、道は悪く、霜柱が立って、長靴なしでは歩けなかったのです。
 千川上水は、美しい水を流し、土手のサクラや紅葉も見事でした。土手のところどころには白いペンキ塗りの木の柱が立っていて、そこに、

「この水は飲料水につき、汚物を投棄したり水遊びを禁ず、是(これ)に違反した者は処罰される 警視庁」

と書かれていたのを印象深く覚えています。千川上水には、魚が泳ぎ、また、夏にはホタルも飛び、子どもたちには魅力のある遊び場でもあったのです。

34 豊山の原(ぶざんのはら)と千川上水

聞き手:練馬区史編さん専門委員 亀井邦彦
平成3年11月1日号区報

写真:千川上水(昭和27年)