29 練馬の伝統 草ぼうき

古老が語るねりまのむかし

29 練馬の伝統 草ぼうき

鹿島 佐平さん(大正5年生まれ 高松在住)

<ほうき職人になる>

 私は、大正5年に、当時の大井村(埼玉県入間郡大井町)で生まれました。そのころ大井では、座敷ぼうき作りが盛んで、同業の組合に入っていた家が50軒~60軒ありました。農家の二男・三男は、たいてい職人の家に奉公に出て、ほうき作りで身を立てていたものです。
 私も昭和4年に奉公に出ましたが、さらに修行するため、昭和15年、当時板橋区練馬高松町という地名だった、ここ高松の地に出て来ました。今の鹿島の家に奉公したのですが、これが縁で、後に養子になり、養父の跡を継いでほうき職人になったわけです。

<上練馬のほうき作り>

 昔の大井村とこの辺りの上練馬村(板橋区練馬高松町一帯の昭和7年以前の村名)は、江戸時代からほうき作りで交流があったそうです。それも、ほうき作りは上練馬の方が早かったようで、大井の人たちは上練馬の人たちから技術を教わったといわれています。私のほかにも何人かこちらへ奉公に来ていました。
 ほうき作りは、高松や田柄、それに今の春日町の辺りが中心で、昔、南部屋敷と呼ばれた相原さん、それに増田さんといったお宅では大勢の職人さんを使っていました。

<最盛期のころ>

 私が高松に来たころは、この辺りで組合(東京座敷箒製造練馬組合)に入っていた家が25軒~26軒ありました。それぞれに職人さんを使っていましたが、この鹿島の家では、私を含めて3人でした。
 材料はホウキモロコシ(ホウキギ)を使いますが、これは付近の農家で栽培していました。麦の畝の間に4月末ごろ種をまいて、8月に収穫します。20軒ほどの農家で作っていて、ほとんどが契約栽培でした。収穫後に大根の種をまくと、よい大根ができるといわれていました。
 品物は、神田や新橋にあった問屋に、リヤカーで納めました。毎年開かれる浅草寺の寒の市(12月17日・18日)にも出しました。戦争が始まるころには御用商人を通じて軍隊や軍需工場からも注文が殺到し、生産が追いつかないこともありましたが、戦争が激しくなると、材料が統制され、一時、休業に追い込まれました。
 戦後は、都庁から大量の注文が入りました。3か月に1度の割で1千本から3千本ほど納め続けたこともあり、このころが最盛期でした。

<最後の生き残り>

 このほうきも、東京オリンピック(昭和39年)のころから電気掃除機に追われ、また機械作りの安いほうきも出回るようになって注文が減り、同業仲間が次々に辞めていきました。今では、私ともう1人の2軒だけになってしまいました。材料も近在にはなく、埼玉県の農家にお願いして作ってもらっています。おそらく、この仕事も当地では私たちが最後となるでしょう。

聞き手:練馬区史編さん専門委員 亀井邦彦
平成3年4月21日号区報

写真:草ぼうきつくり(平成3年)