28 餅つき唄

古老が語るねりまのむかし

本橋 正登(まさと)さん(明治44年生まれ 石神井台在住)

<餅は常食だった>

 その昔はもちろん、昭和も30年代ごろまで、農家にとって餅は大変重要な食糧でした。この辺りでは、日ごろの食事は麦飯でしたが、農作業の休憩のお茶受けや昼食にはよく餅を食べました。
 餅は、麦飯よりうまく、また、おかずがなくても食べられるから重要だったわけです。
 この餅は、すべて自家製でした。田んぼが少ない土地柄のため、陸稲(おかぼ)の糯米(もちごめ)を作って使いました。水稲の糯米に比べて粘りも少なく、ついた時、色も黒っぽくなりました。
 このように、餅は日常的に食べましたから、餅つきも大変でした。正月用の餅は、年の暮れにつきますが、常食にする餅は、年が明けて正月の25日・26日ごろにまとめてつきました。これを寒餅といいます。私の家では2石(1石は150㎏)ほどつきましたが、多いところでは4石もつく家がありました。そのため、夜を徹してつくことになり、親類や組合員(日ごろのつき合い仲間)同士で、お互いに日を決めて手助けに行くのです。
 ついた餅は、たくあん樽(だる)で塩水につけ、水餅にして保存しました。ときどき水を替えることにより、夏までもたせることができました

<5人くらいでついた>

 糯米をせいろでふかし、これを臼に移すと、5人くらいの男衆が細い杵を持って臼を囲み、まず順々にこねて行き、まもなくつき始めます。順番に杵を打ち下ろすのですが、杵を下ろした時、ちょっと手前に引いてやるのがコツでした。
 1人が20回~30回ついたところで手返しが入り、餅を引っ繰り返します。これを3回繰り返したところで、仕上げに入ります。仕上げは、大杵で1人でつきます。つくのは60回~70回で、この間に手返しが入って、調子を見ながら、つき上がりを確認します。つけていないと、「まだ、まだ」と声がかかりました。手返しは、ベテランのおとしよりの役でした。
 ついた餅は、部屋に運ばれ、女衆がこれを延ばし、延ばされた餅は、部屋中に並べられました。
 餅は、米だけでなく、キビやアワ、モロコシなどでもつきました。キビ餅は早く固まるので、まずこれをつき、固まったところで次々に切って、片づけてしまうようにしました。後でついた餅が部屋に並びきらないからです。

 <餅つき唄>

 唄が唄われるのは、最初に餅をこねるときでした。それも朝方になって、仕事にめどがついたときに多かったようです。だいたい、ひと臼5分でつきあがるのですが、唄が入ると10分くらいはかかりました。
 その唄の1つ…

 ~めでた めでたが 三つ重なれば 庭にゃ鶴亀 五葉の松
 ~この家 屋形(やかた)は めでたい屋形 門(かど)にゃ門松 女松に男松

聞き手:練馬区史編さん専門委員 亀井邦彦
平成3年2月21日号区報

写真:餅つき(昭和43年)