30 千川通りと武蔵野鉄道

古老が語るねりまのむかし

30 千川通りと武蔵野鉄道

松本 鶴吉さん(明治44年生まれ 旭丘在住)

<旭丘の千川上水>

 昭和7年まで、旭丘は、北豊島郡上板橋村字江古田新田といいました。私は、そこをほぼ東西に走る千川通り(昔はただ「通り」といった)沿いで生まれ、その後ずっと住んでいます。
 昭和27年~28年ごろに暗きょになりましたが、それまでは今の千川通りの南側歩道辺りが千川上水でした。幅はほぼ1間(約1.8m)、深さもそのくらいありました。この辺は流れも速く、子どもが落ちて流されたり、おばあさんが身投げをしたこともありました。私も、流された子どもを助け上げたことがあります。
 大正のころは、上水の南側はほとんど畑で、北側の土手には大正天皇の御大典(天皇即位の儀式。大正4年)を祝してサクラやカエデが植えられ、豊玉上一丁目の二又交差点には「千川堤植桜楓碑(せんかわづつみしょくおうふうひ)」も建てられました(現在は浅間神社に移設)。
 この土手には篠竹(しのだけ)なども生い茂り、夏はホタルも飛んでいました。その後、この辺りから板橋の大山付近までサクラの名所となり、花見時にはたくさんの人でにぎわいました。

<まばらな民家>

 この土手の北側に沿うのが千川通りで、朝4時ごろにはもう野菜を積んだ荷車が目白の方に向かって行きました。大正末ごろまでは人力(じんりき 手引きの車)のほかは馬力(ばりき 馬車)でしたが、その後は牛車に代わりました。
 関東大震災(大正12年)前までは、今の豊玉上一丁目境から豊島区境までの間に20軒ほどの家がまばらに並んでいました。通りの北側には、下駄屋、駄菓子屋、足袋屋、竹屋、米屋、車大工などの店が10軒、豊島区境近くに電動の水車小屋1軒、長屋1軒のほか、5件の農家。また、上水の南側には、農具や日用品をいろいろ売っていた「百貨店」、駐在所、油屋のほか、2件の農家。これで全部だったと思います。

<江古田駅は畑だった>

 大正4年に武蔵野鉄道(現 西武池袋線)が開通しました。その当時は、豊玉上一丁目境の二又から浅間神社に抜ける道がありました。この道から見ると、いま江古田駅のある辺りは道からずっと低くなった窪地で、畑だったのを覚えています。
 江古田駅は、武蔵高校(現 武蔵大学)ができた時(大正11年4月)、生徒の乗り降りのために武蔵野稲荷の北側に木のミカン箱を並べてホームにしたのが最初です。その後、東の方へ2度移り、今の駅ができました。
 鉄道は、初め小さな蒸気機関車でした。朝夕1度か2度、2両くらいの客車を引いていたのです。震災前の大正11年11月に、やっと電車になりました。電車は最初1両で木造でした。東長崎駅に機関庫がありました。
 このほかに交通機関といえば、震災前後から千川通りをバスが走るようになりました。ボンネットのある箱型のバスで、内部は木造。小さいもので、15人~16人くらいしか乗れないものでした。でも、手を上げればどこでも止まってくれました。目白の方から来ると、ちょうどこの辺りが終点でした。

聞き手:練馬区史編さん専門委員 亀井邦彦
平成3年5月21日号区報

写真:武蔵野鉄道(大正14年)