27 貫井の鐘

古老が語るねりまのむかし

西谷 隆喜(りゅうき)さん(大正7年生まれ 貫井在住)

<かんぴょう川>

私が子どもだった大正末ごろ、この円光院(貫井5-7-3。西谷さんは円光院住職)周辺は全くの農村で、お店といえば、清戸道(きよとみち)沿いに酒屋さんと久保店という店の2軒。それぞれ子ども向けのお菓子を売っていたので、よく買いに行ったのを覚えています。それから、郵便局の前にかき氷の店がありました。仏様にあげる和菓子などは、練馬駅近くまで行かないと買えませんでした。
 お寺のわきに、幅3尺から4尺(1尺は約30cm)の小川が流れていました(今は暗きょ)。今の貫井中学校の南方にあった貫井の池から、わき水が流れて来ていたのです。ウグイやタナゴが泳いでおり、美しい水で、付近の人が飲み水にしたほどです。
 水天宮の前に洗い場があって、ここでダイコンなどを洗っていました。この川は、その先で石神井川沿いの田んぼに注いでいました。私たちはこれを「かんぴょう川」と呼んでいましたが、あるいは「環境川」だったかもしれません(今は「貫東川」と表示されている)。

<子(ね)の日の祭り>

 寺の縁起が(寺起こる由来)に、その昔、この地で密法の修行をしていた法師が、突然足腰の病にかかり、どんな治療も効果がなかったところ、武州大鱗山(ぶしゅうだいりんざん)の子ノ聖大権現(ねのひじりだいごんげん)のご利益で、霊石を得て治ったと伝えています。これが縁で、子ノ聖大権現が祭られることになりました。このお祭りは、毎月、子の日(十二支のねずみ)に講中(こうじゅう 組合仲間)の人が集まって行われていました。また、12年に1度の子の年、子の月、子の日にはご開帳があり、近在から大勢の方が参拝にみえ、露店も出てにぎわいます。
 昭和の初めごろまでは、1月16日に「馬かけ」行事が行われ、近在の馬持ち衆が馬の安全祈願に訪れました。やがて、馬がいなくなり、一時は牛がやって来たのを覚えています。
 この寺も、第二次世界大戦の空襲で観音堂と山門、それに鐘撞(かねつき)堂を残して、ほとんど焼かれてしまいました。

<鐘が伝える心の風景>

 戦前まで、子の日の祭りには、1日中鐘が撞かれていました。寺の者が撞くのでなく、ここを訪れる方が、思い思いに心を込めて撞いたのです。鐘の音には、人の心の風景が現れるといいます。だから、撞く人によって、鐘の音はすべて異なる響きを伝えていることになりますね。
 この鐘も、戦争中の金属の回収(供出)で差し出され、そのまま帰って来ませんでした。
 戦後、本堂が再建されました。次いで地元有志の方々の発願で梵鐘(ぼんしょう)が完成し、再び鐘の音が戻ってきました。昭和35年です。59年のご開帳の折には、子どもたちが鐘を撞きたいというので、自由に任せました。それから今日まで、毎日、ご参拝の方にはご自由に撞いていただいています。毎年、大晦日の除夜の鐘には、大泉の方からも人が集まって来て、鐘を撞いておられます。

27 貫井の鐘

聞き手:練馬区史編さん専門委員 亀井邦彦
平成2年12月21日号区報

写真:円光院の鐘楼(平成19年)