25 田柄田んぼと田柄川

古老が語るねりまのむかし

橋本 福五郎さん(明治38年生まれ 田柄在住)

<戦前の田柄田んぼ>

 田柄には、その中央に田柄川があって(今は暗きょ)、その川沿いに田んぼがありました。これを、田柄田んぼと呼んでいました。
 川は今のように真っすぐではなく、自然のままにくねくね曲がりながら流れていました。この川は、もともと、今の光が丘辺りから、雨が降ったりした後に流れ込んでくる水を集めていたもので、そうした水路がまだ暗きょで残っています。川筋は結構多かったのですが、何しろ雨が降らないと涸れてしまい、田んぼもだめになってしまいます。
 そこで、明治になって、田無の方から用水を引いたのです(※)。私の祖父の時代で、祖父は村の人たちと交替で、田無の方へ水番に行ったそうです。用水が流れていたのは、天祖神社(田柄4-27)前の道路沿いでした。田んぼは、川からこの用水までの間に、東西に広がっていました。

※明治4年に富士街道沿いに引いた田柄用水

<耕地整理で今の町の原形に>

 もっとも、これらの田んぼは、昔からの田んぼですから、形もまちまち、境界も入り組んでいて、水が行き渡らない所もあり、決してよい田んぼではありませんでした。そのうえ、農道も狭くて曲がりくねっており、このままでは将来必ず不便になるものと思い、土地の長老たちが相談して、耕地整理をすることになりました(※)。
 整理のための組合を作りましたが、対象となった家は確か50軒ほどでした。工事は、戦時中から戦後にかけて行いました。まず田柄川を真っすぐにして、水田で使えるところは水田に、そのほかは畑にして、区画を短冊状にしました。これに沿って道をつくり、幅もだいたい4mまで広げました。これで、今の町の原形ができたのです。
 この工事の途中、空襲が激しくなり、今の田柄高校東側の用水沿いにあった水神宮碑を、私の家の牛車で天祖神社境内に移したのを覚えています。

※昭和18年秋に成増飛行場ができて、飛行場内では田柄川や水路の付け替え・暗きょ化を行っている。このため、東側には思うように水が引けなかったという話もある。

<戦後の宅地化>

 耕地整理の時に、水田を畑に変えた所が随分ありました。米より野菜を作る方が有利だったのです。当時は、田柄川沿いを除けば、北も南も広い畑で、練馬大根も戦後しばらく作っていました。
 家ができたのは、東の北町との境辺りからでした。昭和30年より前だったと思います。元の水田の所に建ったため、水害に見舞われて困った家もありました。その後、徐々に今のような家並になりました。

聞き手:練馬区史編さん専門委員 亀井邦彦
平成2年9月21日号区報

写真:田柄天祖神社 水神宮碑(年不詳)