24 お茶に馬子歌・石神井台

古老が語るねりまのむかし

大久保 八重子さん(大正3年生まれ 石神井台在住)  

<キュウリは作らない>

 私の生まれた石神井台周辺は、大正のころは一面の畑で、冬から夏にかけて麦を、夏から先は陸稲(おかぼ)、ダイコン、ニンジン、ゴボウ、トウモロコシ、スイカなどを作っていました。キュウリを作る家も多かったのですが、私の実家では、「キュウリを作ってはならない」という言い伝えがありました。作るとよいことがないというのです。このほか、養蚕やお茶は、私が生まれる前から盛んでした。

<機械で精米・製茶>

 私の母は大変進歩的な人で、この辺りに電気が入ると(大正半ばごろか)、すぐに宅地の一角に小屋を造って、電動式の精米機を据え、近在から精米を請け負うようになりました。
 家の裏は富士街道で、玉川上水の分かれ(田柄用水)が流れていて、近所に2か所水車があり、そこも精米をしていましたが、そのころはもう動いていなかったかもしれません。
 その後今度は、父が、電動の製茶機械を据えました。それまで製茶は手作業でしたが、機械化してからは大々的にやりました。近所からもお茶の葉を買い、製茶したものは仲買人が買っていきました。家の庭で、よくお茶の葉の市などが開かれていたのを覚えています。お茶は、大正末ころまで盛んでした。

 <富士街道を馬が通る>

 そのころ、富士街道を馬車がよく通りました。早朝には野菜を積んで東京市内の市場へ運び、帰りには下肥(しもごえ)を積んで来ます。
 また、馬喰(ばくろう)といわれる牛馬の仲買人が、西の方から1人5頭くらいの馬を引いて、3人、5人とグループで通ることがありました。手綱を手で回しながら、馬子歌を歌って来ます。この辺りを通りかかると、ちょうどお茶を摘んでいる若い娘さんたちに、何やら声をかけてからかいながら、通り過ぎて行くのでした。

<馬駈(うまが)け行事>

 子どものころ、家でも馬を飼っていて、その面倒を見る馬方さんが住み込んで働いていました。雪など降り出すと、食事をしていても縁側から飛び出して行き、馬をむしろなどで覆ってやるといった具合で、まるで自分の子どもを扱うようでした。
 春、花見の季節になると、三宝寺で馬駈けの行事がありました(4月15日、愛馬の無病息災を願った)。付近の農家で飼われている馬は、きれいな腹がけを付け、鈴や五色の布などで飾られて、馬方さんに引かれ、参拝に出かけます。それから門前の木につながれて、順番が来ると、馬方さんが威勢よく馬にまたがり、山門前の広場を駆け回るのです。大勢の見物人がこれを見守り、拍手喝さいしていました。馬にも馬方さんにも、この日は晴れの舞台だったのです。

24 お茶に馬子歌・石神井台

聞き手:練馬区史編さん専門委員 亀井邦彦
平成2年8月21日号区報

写真:ふん尿を運ぶ馬車(昭和26年)