23 小竹町の移り変わり

古老が語るねりまのむかし

篠 鉄五郎さん(大正10年生まれ 小竹町在住)

<小竹を開いた一族>

 小竹町は、昭和7年まで上板橋村字小竹といっていました。昔(明治初めごろか)は、家が15~16軒ほどしかなかったといわれ、すべて「篠」姓でした。私の家で300年ほど続いているようですが、その初めはよく分かりません。鷺宮の方から移って来たと聞いたことがあります。
 氏神の八雲神社は、元は今の位置の東側にあった宝蔵院という寺の境内に祭られていたのを、明治になって寺がなくなり、今の地に移されたそうです。

<浅間(せんげん)神社と池>

 浅間神社には人工の富士山があり、お山の信仰で知られています。その北側の、今、江古田斎場の向かい側にある歯医者さんの所は、以前は池で、水が湧き出していました。ここに精進場があって、富士山や大山などに参拝に出かける人たちが、身を清めた場所でした。
 この池から湧く水は東に流れ、今の品川電線の会社のある辺りから板橋区側にかけてあった水田の用水になっていました。私の家も、品川電線の東方に、水田を2反歩(約20a)ばかり持っていました。毎年4月8日になると、苗床をつくって種をまき、6月に田植えをしたものです。池は昭和40年近くに埋められましたが、その前ごろから田んぼに付近の排水が入ってか、養分が多くなり、稲穂が重くなって、皆、倒れてしまうようになり、39年ごろに田んぼをやめました。

<乳牛5頭を飼育>

 昭和29年ごろに、ヤギを飼いました。子どもに乳を飲ませるためでしたが、その後、乳牛(ホルスタイン)に切り替えました。一時は5頭飼って、家で飲むほかに、板橋の大山にあった雪印乳業の工場に、毎日1斗(約18ℓ)か2斗出荷しました。初めはリヤカーに積んで、自転車に付けて運んでいましたが、その後運送屋さんにお願いしました。
 乳牛を飼ったのは、小竹では、私の家だけでしたが、近くでは桜台の風祭さんとか、羽沢の浅見さんなどでも飼っていて、琴坂さんという運送屋さんがこれらの家を回って運搬を引き受けていました。
 牛は、39年ごろまで飼いました。周辺に家が建て込んできたことと、それまで重要なエサだった田んぼの草やワラが、田をやめて取れなくなったことから、牛を飼うのをあきらめました。

 <農作物の移り変わり>

 田があったといっても中心は畑作で、父親の代には練馬大根を随分作っていました。戦後、私の代になってからは、キュウリ、ナス、トウガン、カボチャ、トウモロコシ、コマツナ、カラシナなどの生野菜が多くなり、淀橋や江古田の市場に出しました。大根も作りましたが、煮物用でした。カボチャといえば、表面にでこぼこのない、栗カボという種類のものを当地で初めて作ったのは私の父親だったと聞きました。
 戦前、植木を作ったこともあります。特にアオキは縁日屋さんが買って行きました。
 戦後しばらくたったころからキャベツが盛んになりましたが、その後、最近まで出荷したのはブロッコリーでした。

<宅地化へ>

 昭和初めごろはまだ一面に田畑が広がり、私の畑からは西南に富士山が見え、南の水田の向こうに能満寺や武蔵野線(現・西武池袋線)の電車も見えました。夏はホタルも飛んで来て、8月でも田んぼの方から、寒いくらいの風が家の中まで吹いて来ました。
 私の所で、家を建てるための土地を貸し始めたのは、昭和4年です。都心から移って来られた小学校の先生方が最初でした。地代は坪9銭でした。
 最初、土地は売らずにお貸しするのが一般的でした。私の所では昭和46年に区から依頼され、やくも公園用地を提供したのが、土地を売った初めでした。
 付近の宅地化は、昭和4年ごろから始まったと思います。それでも昭和8年の町会「小竹会」の会員は182世帯(平成2年7月1日現在の小竹町全域の世帯数は3千842世帯)でした。

聞き手:練馬区史編さん専門委員 亀井邦彦
平成2年7月21日号区報

写真上:徳殿公園北側にあった牧場(昭和38年)
写真下:農産物品評会(昭和28年 練馬公民館)