17 豊玉の年末年始の風景

古老が語るねりまのむかし

一杉 成一郎さん(大正14年 現・豊玉中生まれ)

<年の瀬>

 まだ中新井川沿いに田んぼがあつた頃の話です(昭和10年代に区画整理が行われ、水田がなくなる。川も、区内では現在暗きょ)。
 当時、家では米も作りましたが、多くは畑作で、まだダイコンを随分作っていました。ゴボウ、ニンジン、ナス、キュウリなども作りました。ナスやキュウリといった園芸物は、大正末ころから特に盛んになったようです。また、スイカ、トマトも昭和初め頃から作り始めていました。オカボ(陸稲)、麦、イモ(ヤツガシラ、サトイモ)、豆も重要な作物でした。
 米や野菜の多くは秋までに収穫しますが、麦は野菜を収穫した後、空いた畑に10月10日頃、種をまきます。
 11月初旬ごろからダイコンの収穫が始まり、漬物用の練馬大根は、12月の霜が来るまでの間に干し上げます。どの家も一斉に干す風景は壮観でした。
 干したダイコンは、自家用に漬けるものを残して、あとは牛込にあった漬物問屋などに売りました。ダイコンは、漬物用のほかに、煮物用のものも2割ほど作り、これは収穫する端から神田や江東の市場に出します。
 たくあんを漬ける頃には、いよいよ年も押し迫ったと感じたものです。1年の農作業は、だいたいこれで終わるわけですが、農家の仕事は、冬は冬で結構あったものです。まず、「ヤマ掃き」といって、林に積もった落ち葉を集めて堆肥作りが始まります。林のことを「ヤマ(山)」といいましたが、そこに積もる落ち葉は重要な肥料になります。自分の林を持たない人は、持っている人に頼んで掃かせてもらい、落ち葉をいただくのです。普通はそのお礼として、わずかでもお金を出しました。
 ムシロ編み、縄ないといった仕事も冬場の重要な作業で、つぎの年の農作業に必要な分を作り上げておくのです。薪割りもありましたし、農具の手入れもしておかなければなりません。鋤(すき)や鍬(くわ)は、椎名町にあった鍛冶屋に出しました。こうした冬の仕事をしながら、正月の準備にかかります。

17 豊玉の年末年始の風景

<正月準備>

 正月の準備は、12月25日頃の大掃除から始まります。この前後に、餅をつきました。29日だけは「苦(九)餅」といって、つくのは避けます。餅は、このほか、1月下旬の寒中にもつきましたが、そのときは1年中の農作業時のお茶請け(間食、弁当)用に、1石(150㎏)以上つくので、手間借り(親戚や組合の人同士が手伝い合う)をしました。
 大晦日の前に、竹と松の枝を切ってきて、門口に飾ります。まず、くいを打って、1本の竹を立てて結わえ、さらに松の枝を結び付けます。これを一対作るのです。
 そして、ダイジグサマ(伊勢大神宮)、大黒さま、恵比寿さま、荒神さま、それに屋敷神のお稲荷さま、三峯さま、そして田のわきに祀ってあった弁天さまにお供えしました。仏壇には3組供えます。
 年越しに食べるそばは自家製で、臼で粉にして、木鉢で練り、延べ棒で延ばして、切るまで家でやったものです。これを御雑器(おざっき)に盛って、神仏にお供えし、家族で食べながら新年を迎えました。 
 元日の朝は鎮守の氷川さまにお参りし、3が日はお雑煮を食べます。4日からは、あいさつ回りがあって、お節料理の出番となるのです。

聞き手:練馬区史編さん専門委員 亀井邦彦(旧姓北沢)
平成元年12月21日号区報

写真:練馬大根の日干し風景(昭和10年)