18 練馬にできたアトリエ村

古老が語るねりまのむかし

西村 愿定さん(大正3年生まれ 桜台在住)

<元祖は豊島区>

 昭和10年代の初め頃、私は画家になることを志して、東京美術学校(現・東京芸術大学)に学んでいました。
 その頃、今の豊島区長崎や要町、千早町辺りに、画家や彫刻家などのアトリエがぞくぞくと建っており、アトリエ村と称していました。その一角、要町一丁目の通称「すずめが丘」に、一時は私もアトリエを借りていました。
 当時この辺りを中心に、池袋周辺で300人ほどの芸術家が住み着いていたようです。
 このアトリエ村の最初は、アメリカから帰ってきた日本人で、クリスチャンだった人が、祖国のために何かしたいとのことで、若い美術家のために貸しアトリエを建てたのがきっかけだったそうです。

<練馬に土地を求めて>

 学校を卒業する前の年、私は自分のアトリエを建てるため、桜台三丁目の今の場所を探しました。当時は、まだ板橋区練馬南町といった時代で、ちなみに私の所は二丁目3888番地で、そのころの表札が門柱に残っています。
 ここに移って来た昭和14年頃は、まだ、いたるところ農村風景で、江古田駅から正久保橋に通じる表通り沿いに、ようやく家がぽつぽつ建ち始めていましたが、それも私の家辺りまででした。ここから正久保橋に向かえば、ほとんど大根畑で、石神井川沿いにはまだ田んぼもあり、川の土手には桜並木が続いていました。家のすぐ近くには牛を飼う農家があり、ここによく出かけて牛のスケッチをしたものです。
 駅から14~15分、交通といえば、ボンネットの付いた小さなバスが1時間に1本程度走っている、そんな時代でした。
 まだ学生の身分で、アトリエを造る土地を借りようと思えば、せいぜいこの辺りかと思って来たものです。表通りに面した所は地代も高かったので、最も奥まった今の所を月坪9銭で80坪借りたのでした。

<練馬のアトリエ村>

 私がここに移って来たきっかけは、そのころ豊玉にもアトリエ村ができていて、友人の何人かが住んでおり、この近くに居を構えたいと思ったからです。
 豊玉のアトリエ村の位置は、練馬警察署の南側へ少し入った所で、長崎ほどの数はありませんでしたが、木造平屋の3軒長屋式のものが数棟ありました。いずれも貸しアトリエで、1軒の間取りは、北側に15畳のアトリエ、南側に4畳半か3畳の居間が1つ、それにトイレといった作りでした。
 ここに私の学友で、今日、第一線で名の知られている彫刻家の佐藤忠良氏、舟越保武氏、洋画家の荻 太郎氏などといった人たちが住んでいて、私もよく足を運んだものです。変わり種も多く、先輩に当たる朝井閑右衛門さんという方は、アトリエで300号という大きな絵を仕上げ、これを展覧会に出すため運びだそうとしたら、柱につかえてどうしても出ない。そこで、柱をのこぎりで切り倒して出したという豪傑です。大家さんには内証だと言っていました。この絵が文部大臣賞をいただいたのだから大したものです。
 また、近くには、西尾善積さんのアトリエなど、1戸建てのものもあり、小規模でもアトリエ村を形成していました。
 これらのアトリエも、戦時中に疎開などで立ち退き、いつの間にか消えてしまったようです。今思えば、こうした人たちの活動は、今日、多くの芸術家が練馬区に住むはしりとなったわけで、文化のまち練馬への発展の一翼を担ったとでもいえましょうか。

18 練馬にできたアトリエ村

聞き手:練馬区史編さん専門委員 亀井邦彦
平成2年1月21日号区報

写真:石神井川の桜(昭和16年)