16 大戦前後の石神井公園駅周辺

古老が語るねりまのむかし

杉田 芳子さん、佐野 みどりさん姉妹(石神井町在住)

<自転車で走り回る>

 私たちの母の姉という人は、松倉ハナと申しましたが、故郷の新潟で5年間連れ添った夫に死に別れ、上京して、産婆や看護婦の免許を取り、大正13年の暮れ頃、石神井公園駅の近くに産婆を開業しました。
 結構繁盛し、特に昭和10年代には軍事色が濃くなり、産めよ殖やせよという風潮もあってか、いよいよ忙しく、助手を3人~4人置いて、夜もすぐ飛び出せる用意をして寝たそうです。頼まれる範囲も広く、練馬はもちろん、中野、杉並、清瀬、田無、成増辺りまで出掛けたそうです。このため、自転車を習いましたが、これが不器用で、おまけに太っていたものですから、しょっちゅう転げ落ちては、また飛び乗って、畑中の道を走って行ったといいます。
 人の面倒をよく見た人で、下谷(現・台東区)で写真機商をしていた私たちの父も、この人の縁で今の石神井町に家を移すことになりました。昭和19年のことで、以後、私たちが結婚しても、当地に住むきっかけとなったのです。

<当時の石神井公園駅周辺>

 私たちが移って来た頃の石神井公園駅は、小さな木造駅舎にホームが1本で、電車も木造で、手動式のドアでした。南側のバス通りには、石川肉店、原田薬局、十字堂洋品店、福沢呉服店、栗原時計店、西沢菓子店といった店が十数軒並んでいましたが、いずれも木造平屋か2階建てで、家と家の間には空き地が目立ち、裏は畑が広がっていました。この通りの両側は桜並木で、ボンネットの付いた小型のバスが走っていました。

16 大戦前後の石神井公園駅周辺

<予科士官学校に通う>

 私(杉田)は、昭和19年の当時、まだ女学校に在席していましたが、徴用で、嘱託として朝霞にあった陸軍予科士官学校に勤めることになりました。教官のお手伝いといった仕事でした。
 今の陸上自衛隊朝霞駐屯地の所が、ほぼそのまま学校の敷地で、木造の校舎が無数に並んでいました。そのほか、本部や講堂といった建物があり、全寮制でした。東大泉三丁目の住宅地は、当時この学校の教官たちが住んだ所で、「将校住宅」と呼ばれていました。
 毎朝バスで通いましたが、教官をはじめ学校関係者ばかりで満員になり、一般の人はこの時間帯は乗せてもらえなかったようです。このバスも、戦争が終わりに近付く頃には燃料が無くなり、止まってしまいました。仕方なく歩いて通いましたが、いつ空襲に遭うかも知れず、国民服にヘルメットを背負って出掛けました。
 1度、途中で空襲に遭い、機銃掃射を受けましたが、地面に伏せて何とか命拾いしたものです。その後は、広いバス通りは避けて歩くようにしました。

<配給の時代>

 戦後しばらく、配給の時代が続きました。特に終戦直後は最も食糧事情が悪く、大豆なども主食として食べたものです。ボート池に向かうバス通りにある辰巳軒さんでは、雑炊を作って配給していました。近在の人がチケットを持って並び、手にした鍋などに一定量の雑炊をすくってもらうのです。多少米も入っていましたが、多くは菜っ葉などでした。それでも食べられれば幸せという時代でした。父はよく、川越まで自転車でサツマイモなどの買い出しに出掛けていました。

聞き手:練馬区史編さん専門委員 北沢邦彦
平成元年11月21日号区報

写真:石神井公園駅前通東側(昭和28年)