15 千川上水沿いの水車

古老が語るねりまのむかし

斉藤 泰治さん(明治42年 現・南田中生まれ)

<水車経営に当たる>

 今住んでいる所(南田中1丁目)に、水車がありました。これは、元は鴨下さんという方が経営しておられたのです。いつ頃からのものか、よく分かりません。これを私の従兄で斉藤倉之助という者が、大正12年8月1日に引き継ぎました。でも、彼は42歳で亡くなってしまい、その後を私が引き受けたのです。昭和5~6年の頃で、私が22歳の時でした。

<千川上水から引水>

 千川上水は、家の南側の通りのほぼ中央辺りを流れていました。堀の幅は1間半(約2.7m)ほどで、きれいな水でした。魚が随分いましたし、夏にはホタルも飛びました。
 この川から幅6尺(約1.8m)ほどの水路を分けて、水車に水を掛けていました。水の取り入れ口は、今の環八と交わる辺りでした。水車の大きさは、直径7mはありました。下の部分は土を掘って沈め、そこへ水を落としてやる形式でした。使った水は、また千川上水に返します。
 分水を引くため、千川上水の土手が切ってあります。そこでこの土手(土揚敷(どあげしき))の使用料を東京府に払っていました。取入口1個所、排水口2個所の計3個所に、それぞれに税金が掛かる仕組みでした。

<糠(ぬか)は副収入>

 水車を挟んで工場が2個所あり、中に挽臼(ひきうす)4台、搗臼(つきうす)2台、杵(きね)12本、それに大正末ごろに入れた精米機などがあって、精米や麦の挽き割り、製粉が主な仕事でした。
 お得意は近在の農家で、収穫した米や麦をリヤカーで運んできます。これを注文に応じて加工するわけです。そこで加工賃をいただくのですが、戦前で、米の精白は1俵(60㎏)10銭だったと思います。ともかく加工賃は安いものでした。その代わり残った糠や麩(ふすま)はもらい受けて、これを売って副収入にしました。糠はたくあん漬けの材料や、肥料になりますし、麩は家畜の餌(え)になるのです。

<戦争で水車がだめに>

 昭和15年に、玉川上水の水を村山の貯水池に溜めるというので(この年は干害だったという)、半年間こちらに水が来なくなった時があります。これでは仕事になりません。そこで、電気を引くことにしました。1㎞ばかり先から電線を延ばしてくるため、途中22~23本電柱を立てることになり、この費用も負担しました。ところが、電気が入ったと同時にまた千川上水の水も戻ってきました。そこで、しばらくの間は電気と水車と両方使ってみたりしたものです。
 そうしているうちに、昭和19年7月2日、私は兵隊に取られて、教育兵として訓練を受けるため、当時の朝鮮に送られました。9月28日にいったん帰されましたが、この3か月の間は仕事は中断です。水車はふだん動かさないと上は天日で乾いて、下は水につかった状態ですから、軸のバランスが崩れてだんだん使えなくなるんです。この時にもうだめになり、その後は電気だけの操業に切り替えました。
 ところが、戦後になると、今度は周辺の田んぼがつぎつぎにつぶれ、仕事が成り立たなくなりました。
 結局、昭和30年頃までで廃業してしまいました。
 その頃には、ずいぶんお世話になった千川上水も暗きょになっていました。

聞き手:練馬区史編さん専門委員 北沢邦彦
平成元年10月21日号区報

写真:八成橋脇の水車(年不詳)