14 昭和18年 光が丘に成増飛行場建設

古老が語るねりまのむかし

加藤 佐平さん(大正7年 現・田柄生まれ)

<立ち退きのお達し>

 今の光が丘公園の北の出入り口辺りに、昔は「お玉が池」という池があって、オタマジャクシが随分いました。その周囲は畑や森で、人家はまばらでした。その辺りに昭和初め頃、火葬場ができるという話がありましたが、これは住民の反対で中止されたそうです。地域の発展を妨げるという理由からでした。
 ところが、昭和18年になって、今度は陸軍の飛行場ができるというのです。5月に私の父親が隣の本家に呼ばれて行くと、飛行場を造るので、ここを立ち退くようにお達しがあった、と言われました。後で知ったのですが、この前の年の4月18日に、東京は初めてアメリカ軍の空襲を受けていて、急いで東京を守るための飛行場造りが計画されたというわけです。今度は、地元の反対も、地域の発展も何もあったものではありません。

<住民離散>

 一応の説明会はありましたが、6月になって板橋区役所(当時、練馬区は板橋区に属していた)に実印を持ってくるようにと言われ、たまたま父親が行けなかったので、私が出かけました。すると、窓口で職員が「ハンコ」を出すようにと言い、渡すと何やらの書類に印を押していました。それが土地明け渡しの承諾書だったのでしょう。もっとも、土地は坪当たり宅地15円、畑10円、水田や山林5円といったような値段で買い上げるわけですが、代替地や引っ越し、農作物などに対する保証は一切ないのです。家の建て替えに必要な物資だけは現物支給されるということでしたが、実際にはそれを受ける前に立ち退かなくてはならない家もあって、大変な混乱でした。
 後になって私の家だけは、飛行場の区域が変更になって、対象からはずされたため、宅地の移転は免れましたが、そのほかの80世帯ほどの家は追い立てられるようにして立ち退いて行きました。親類の家や専門の鳶(とび)職を頼み、家を壊している端から、一方で飛行場建設工事が進められていくのです。8月には飛行機を飛ばすと言っていました。

<飛行場建設>

 工事に参加したのは、赤羽にあった工兵隊の人たち、産業報国隊(民間の工場などで組織)の人たち、朝鮮の人や学生もいました。また、豊多摩(中野)刑務所の囚人も働かされていました。
 この土地(今の光が丘一帯)は、ちょうど中央に田柄川とそれに沿う田柄用水が西から東に流れていて、その間が田んぼで低く、北と南が高いわけです。そこで川や用水を暗きょにして、北と南から土を削って運び、田んぼを埋めて平らにならしました。その工事のため、南北に何本もトロッコの線路が敷かれていました。
 私の家には、よく工兵隊の人が休憩の場所を求めて来ました。皆、上半身裸で、背中なんか火ぶくれのようになっていました。
 秋ごろには、守備隊も入りました。午前2時頃から払暁訓練だといって、飛行機のエンジンの調整をする音などがよく聞こえて来ました。
 私は昭和19年8月に召集され、20年8月24日に復員しましたから、この間のことはよく知らないのですが、後に家人に聞きますと、この頃、成増飛行場の兵隊の所へ奥さんたちがたまたま面会に来たりした時には、周辺の家に泊まることもあったそうです。私の家にも、整備兵の奥さんが来て、時々泊まったそうで、戦後に土地の名産などを送ってくれたり、こちらからも送ったりして、お付き合いが続いたものです。

14 昭和18年 光が丘に成増飛行場建設

聞き手:練馬区史編さん専門委員 北沢邦彦
平成元年9月21日号区報

写真:戦闘機の残骸が散らばる成増飛行場(昭和20年)