13 農事あれこれ

古老が語るねりまのむかし

高山 平太郎さん(明治38年 現・高松生まれ)

<牛の経済学>

 昭和初め頃、漬物や野菜の運搬には、牛車か手車(てぐるま =大八車より軽便で車輪に鉄枠がはめられている)が使われていましたね。
 その前には馬を飼っていた家もありましたが、軍隊に徴発されたりしたため、牛に替えたのです。また、戦争で働き手を取られた家でも、牛を飼いました。そのころ、朝鮮から牛が入って来ていたのです。茶色っぽい牛です。
 私の家でも牛を飼いました。馬喰(ばくろう =牛馬を扱った業者)さんが若い牛を連れて来て、これを85円から100円程度で売るのです。荷を引かせて1年もするとすっかり肉が付いていい牛になります。そこへまた馬喰さんが若い牛を連れて来て、肉の付いたのと取り替えていくのですが、この時、あちらは150円くらいで引き取ります。そこで60円程度の差額が出ます。当時、牛の飼料代が1か月5円くらいかかりましたから、1年で60円。結局牛はただで飼える勘定になって、使役する分だけプラスになるわけです。
 肉の付いた牛は肉牛としてまた高く売れますから、馬喰さんも商売になる。どちらも持ちつ持たれつの関係だったわけですね。

<鶏と卵>

 鶏は、戦前、どの農家でも大抵飼っていましたよ。家でも10羽ほど飼っていました。祝い事などで人が集まるときに、これをつぶして(料理して)食べるのです。茶褐色の「カシワ」と呼んでいた種類のもので、庭先で飼って、自由に卵を産ませます。このように、自然の状態で産ませた卵は「地卵(じたまご)」と言って、黄身がしっかりしており、割っても崩れません。これは全部売りものにしました。
 牛込の方の、ある大きなお屋敷に、数日置きに20~30個届けるのです。1個12銭で買ってくれました。自分の家のものだけでは間に合わないので、近在の農家から1個6銭で買って届けたりもしました。
 ところが、この鶏は、時には羽抜(はぬ)けと言って、羽が抜ける時期があり、その時は卵を産みません。ある日一斉に羽抜けになり、弱ったと思っていると、お屋敷から催促が来ました。近在の卵でも間に合わないので、取りあえず、当時上海から来ていたという1個3銭の卵を買い込んで持って行きました。その後が大変で、翌日に顔を出すといきなり苦情を言われました。割ってみたら、みんな黄身が壊れてしまう、いつもと違うものを持って来たんだろう、というわけです。

13 農事あれこれ

<肥料事情>

 人(じん)糞尿(ぷんにょう)は、農作物には欠かせない肥料でした。少しでも多く確保するために、都心の方にお得意を作って、定期的に汲み取りに行きました。
 大正末頃までは、肥料を汲ませてもらうお礼として、暮れなどに麦焦がしや野菜などを届けましたが、昭和になると、逆に手数料をいただくようになりました。この頃には、化学肥料が普及して、農家で糞尿を使う割合が少なくなっていたのです。だからといって汲み取りに行かないと先方も困るわけです。そこで、手数料を頂くことになったのですが、なかなか払ってくれない所もありましたよ。
 今は大きな企業になりましたが、戦前まだ小さい工場だったある会社では、女工さんの寮があって、そこへ汲みに行ったものです。工場では手数料を待ってくれと言って出さない。冬など尿ばかり多くて肥料としても上等とは言えなかった。とうとう頭へ来ましてね、ともかく汲み取って、帰りがけに近くへ捨ててきましたよ。

聞き手:練馬区史編さん専門委員 北沢邦彦
平成元年8月21日号区報

写真:石神井川(羽根木橋 昭和初期)