12 漬物と歩んで60年

古老が語るねりまのむかし

 高山 平太郎さん(明治38年 現・高松生まれ)

<人生を開いたダイコン>

 大正7年頃ですが、私は父親の指示で、白子(和光市)で藍(あい)を商っていた大きな家に住み込みで働きに出ました。この頃、藍は重要な染料として、近在でもよく作られたものです。そこで、その商売を覚えて、身を立てようとしたわけです。  
 5年間みっちり修行して、大正12年に家に戻りました。しかし、この間に時勢が変わり、ドイツからインディゴという化学染料が盛んに入るようになったため、もう藍はだめだと分かったのです。白子でお世話になった家も左前になり、悪いけれども、もう何も力になってやれないと言われました、おまけに、この年に父親が亡くなってしまいました。
 途方に暮れて、これからどうしたものかと思いました。そこで始めたのが漬物でした。元々、この近在は練馬ダイコンの産地でしたから、材料には事欠きません。漬物の伝統もあります。ただ、私は練馬ダイコンではなく、煮物用の美濃早生ダイコンを浅漬けにして出したのです。これは、生で出荷するより利益がありました。
 牛込、早稲田、下谷などの八百屋さんや市場に出したのですが、下谷の市場では毎日4斗樽(だる)で8本も注文をくれました。これが弟と始めた仕事の最初でした。

<2・26事件のころ>

 私の叔母がその頃、横須賀で海軍の賄いをしていて、叔母の話では、港に軍艦が入ると食料の値段が上がるというのです。そこで時期を見計らってそちらへ出荷し、結構もうけました。またある時は、ジャガイモを北海道から2千俵ばかり買い込んで、底をつく時期を見て売りに出したこともあります。1俵70銭で仕入れたのが、1円から4円で売れましたよ。
 ダイコンは初め、自分の家の畑で作ったのを漬けていたのですが、昭和8年に当地のダイコンは干ばつで全滅しました。練馬ダイコンはこの頃から、西の方へ移って行きます。戦後は次第に、七生村(現・日野市)や群馬県からダイコンを買うようになりました。
 昭和11年の2・26事件の直後は野菜が東京に入らなくなり、いつもは1度の出荷で済むところを2度ずつ運んで、値段も高く売れました。またこの時、弟を三浦までやって、土地の農家から生ダイコンを1町歩分ほど買い付け、これを毎日トラックで東京の市場に運んだものです。

<戦時中は供出をした>

 太平洋戦争の時は食糧も配給になりましたが、私たち生産する方は、供出(割り当てにしたがい、農産物などを政府に売りに出す)の義務を負わされました。私のところでは、1日5貫目(18.75㎏)の束の生ダイコンを10束ずつ、リヤカーで豊島市場まで運んだ年もありました。また、漬物用のダイコンは、自家生産以外に1万貫(37.5t)を配給で受けて、これを漬けて出荷しました。
 砂糖やしょう油、塩、みそなども配給ですから、漬物を漬ける塩も割り当てられるわけです。そこで、以前あった汐留駅までトラックで塩を取りに行きました。

<群馬県にも工場>

 戦後、地元にダイコンが少なくなると、鶴ヶ島(埼玉県)や群馬県の方に工場を作り、地域の方々にダイコンの契約栽培をお願いして、そちらの工場で漬けて、東京や神奈川、埼玉方面(主にスーパー)に出荷する方法を採りました。

 今は練馬の工場ではダイコン以外のものを漬けています。全体で100種ほどの商品を作っていますが、近辺で間に合う材料はハクサイくらいになりました。
 今年で、工場は創業60周年を迎えました。

聞き手:練馬区史編さん専門委員 北沢邦彦
平成元年7月21日号区報

写真:漬物工場(昭和30年)