11 大泉の伝統・撚糸業

古老が語るねりまのむかし

見米  秀綱さん(大正12年 現・東大泉生まれ)

11 大泉の伝統・撚糸業

<東大泉と撚糸>

 明治・大正頃に大泉村では養蚕が随分盛んでしたが、今の東大泉(当時は字上土支田)には綿糸や麻糸を撚(よ)る「撚糸(ねんし)」業が根付きました。これは、当地の加藤仙右衛門という方が、小石川(文京区)で技術を学んで来て始めたのが最初でした。
 私の祖父、秀五郎が、仙右衛門さんから技術を習って工場を起こしたのは、明治40年春でした。当地では仙右衛門さんの家に次いで古い創業になります。
 大正末頃には景気がよく、機械を1台入れると、畑1町歩(約99.2a)の収穫に見合う収入があったというので、「一町財産」と呼んでいたそうです。家では8台の機械(当時は30~40mの長さに糸を渡して、ハンドルで撚る手動式)を据え、7~8人の人を雇っていました。
 もっとも、家ではお茶や野菜なども相当に作っていましたから、多い時で25~26人ほどの人が働いていました。
 ともかく撚糸はもうかるというので、周辺でこれを始める家が次々に増えて、東大泉地域では32軒ほどになったものです。農業の手の空く冬場に、庭の一隅に撚り場を設けて内職をする家もありました。

<糸は西から来た>

 糸を扱う問屋が当時は日本橋にあって、この問屋から原糸を預かり、注文の太さに何本も撚り合わせて納めるわけです。その加工賃が私たちの収入になります。問屋は原糸を紡績工場から買うわけですが、こうした工場は大阪など関西や三河(愛知県岡崎方面)に多く、原糸はそちらから入って来ました。大正半ば頃には、練馬にも紡績工場ができ(大日本紡織(株)、大正9年創業。後、三転して鐘紡の工場となる)、こちらの糸も回って来るようになりました。
 撚った糸を問屋に納めると、問屋はこれを千葉県や東北、北海道など漁場の近くにある網問屋に出荷します。そこから糸は網製造工場に回り、主に漁網として利用されることになります。戦時中は擬装用の網に使う糸や、ワイヤーロープに入れる麻糸を撚っていました。

<組合で出荷もした>

 大正末頃には「愛糸会」という組合もできていました。問屋も入って、主に加工賃の取り決めなどをし、仕事の円滑化を図ったのです。
 この組合で、昭和6年頃にトラックを買って専門の運送屋さんをお願いし、3日に1度、協同出荷することになりました。その前は馬車や手車で運んでいたのです。
 撚糸業は、一時は村の財政にも相当寄与していたものですが、戦争が始まるとさまざまに統制が強くなりました。問屋も統廃合され、また組合も昭和10年頃に解散し、その後は体制下の組合に編成替えされました。この時工場を閉鎖する所もありました。
 また、戦後は労働条件などが厳しくなり、経営をあきらめる家が続出しました。私の家でも随分人手確保に苦労しましたが、事業を続けることにし、昭和38年に今のリング式の機械を導入しました。
 気が付いてみたら、撚糸工場は隣の親類の家と私の家の2軒だけになっていました。でも今は、ハムなどを縛る糸や、バックネット用の糸など、仕事は結構あるんです。今後もぜひ続けたいと思っています。

聞き手:練馬区専門委員 北沢邦彦
平成元年6月21日号区報

写真:撚糸工場の内部(昭和31年)