10 兎月園(とげつえん)

古老が語るねりまのむかし

花岡 信男さん(明治45年生まれ 旭町在住)

<成増農園>

 大正10年頃の話です。私の叔父は、根岸(台東区)に住んでいて、貿易の仕事などをしていました。この人が、今の豊渓中学校一帯(旭町三丁目)の所に、「成増農園」を作りました。1万坪(約3万3千㎡)ほどの土地を妙安寺さんからお借りして、農園にしたのです。
 これを区画して、会員を募ってお貸しするという事業を始めたわけです。会員は、主に東京市街の方々でしたから、私立の市民農園といったところでしょうか。行楽を兼ねて、野菜作りに出かけようというわけです。もっとも、ふだんは付近の農家の方に頼んで野菜を作っていただき、折に付けて送ってもらうという、産地直送とでもいいますか、そのように、農園を利用する会員も多かったのです。
 叔父がこの地に農園を造ろうとしたのは、当時の東武鉄道の社長だった根津嘉一郎さんと知り合いで、東上線沿いに人を呼びたいという根津さんの考えと歩調が合ったからでしょう。

<農園が兎月園に>

 農園の利用は盛況で、休日などにここを訪れる人は多かったようです。ところが、ここは、何しろ畑や山林が広がる農村でしたから、お茶を飲みたいと思っても、農家にお願いするしかないわけです。
 そこで、休憩所を作ろうということになりました。その休憩所が、また、はやったのです。それではというので、料亭を作ったのが、兎月園の始まりです。
 今は、光が丘の公園になってしまいましたが、その一角に、昔、「お玉ケ池」という池があり、ここから流れた川が豊渓中学校北側の谷へ回り込んで来ていました(水路跡が残っています)。その谷間の池のほとりに料亭の本館を建て、池の周囲に幾つか別館を作りました。池にはボートを浮かべ、豊渓中学校のグラウンド辺りの畑は運動場にしました。運動場では、当時としては珍しい自転車を乗り回す人たちが集まって来て、競争をしたといいます。ここには、テニスコートもありました。
 また、映画(活動写真)館も作りました。小動物園も開設して、子どもをポニーに乗せて遊ばせるコーナーもできるという具合で、今日の遊園地の機能も備えた行楽地に発展しました。
 時に、大ノ里などが来た相撲やボクシング、芝居の興行も行われたのです。
 今、三宝寺さんで保存しておられる勝海舟の屋敷にあったという長屋門、あれは当時は兎月園の正門として利用されていました。兎月園通りはサクラ並木で、春になると花見の人でにぎわったものです。

<戦争で閉園に>

 料亭では宴会もでき、結婚式も行われました。客は、遠方からも来ました。政治家などが、利用することもありました。
 近在からは、朝霞の予科士官学校の教官がよく来ていたそうです。何かの折に、東条英機が馬に乗って来たといいます。
 この兎月園も、太平洋戦争が激しくなると、利用者も減り、昭和18年頃に閉園という運命をたどっています。

聞き手:練馬区専門委員 北沢邦彦
平成元年5月21日号区報

写真:聞き手:練馬区専門委員 北沢邦彦
平成元年5月21日号区報

写真上・下:兎月園絵葉書(昭和18年)