9 戦前の旭町にあった養護学校

古老が語るねりまのむかし

花岡 信男さん(明治45年生まれ 旭町在住)

 <花岡学院建設>

 今の旭町二丁目、三丁目の辺りは、大正の頃はほとんど山林や畑で、秋になるとコスモスの花が随分咲いていたのを覚えています。
 その頃、父親(和雄氏)は神田で病院を経営していましたが、大正14年に現在の旭町2-11の地(大半が今の光が丘公園にかかる)に、虚弱児童の保養と教育を兼ねた施設を造ることになりました。
 池や小川のある谷間と周辺の台地を合わせて5千880坪(約1万9千400㎡)を妙安寺さんからお借りし、高台には校舎や寄宿舎を造り、谷間には運動場や、池を改造したプールを造りました。そのほかに、林や野原、池や小川などの自然を多く残し、また畑も持っていました。
 

<全寮制の養護学校>

 対象は小学校1年~6年生の身体の弱い子どもで、定員は30名。全寮制でした。校舎には学習室、娯楽室、診察室、食堂、寝室などが完備されていて、医師、教員、保母さんたち7~8名が付き添っていました。
 子どもたちは、ここで健康の回復を図りながら、同時に体力に合わせた教育が受けられたわけです。天気のよい日には、池のほとりに机を並べて勉強をし、林を歩き、ときには社会見学にも出かける。また、畑で作物の作り方を実習するといった具合です。
 後には日曜だけの郊外学校も開設され、東京市街から多くの子どもたちが集まりました。送迎用のバスも用意されたほどです。
 この学校は、花岡学院といいましたが、父がこの土地を選んだのは、大正3年に東武東上線が開通していたことと、近くに叔父が経営する成増農園(後の兎月園(とげつえん))があって、周囲の環境のよさに注目したからでしょう。

<戦争で廃校へ>

 もっとも、初めは療養所を建てるつもりだったようですが、地元の方々の反対があり、養護学校建設になったのです。
 この花岡学院も、太平洋戦争の始まる昭和16年頃には、さまざまな統制から個人経営を続けるのが大変困難になりました。こうしたとき、当時の神田区(今の千代田区内)で養護学校を造るという計画が持ち上がり、結局ここへ施設すべてを寄付することになりました。18年3月のことでした。
 名称も「武蔵健児学園」と改められましたが、内容は以前のとおりで、このころは私も手伝っていました。先生の中には童謡「叱られて」を作詞した清水かつらさんもおられました。でも、戦争が激しくなると、疎開する子どもが増え、事実上閉校のような状況になりました。
 そして、戦後は、校舎の建物のあった所は除いて、そのほかすべてアメリカ軍に接収され、運動場があった一帯はグラントハイツの排水処理場になってしまいました。
 名称が変わったことに伴い、18年6月、記念碑が建てられましたが、校舎は、23年5月に競売にかけられ、千代田区の(株)フレーベル館が落札しました。
 それで、この記念碑は、今は私の家に置いてあります。

9 戦前の旭町にあった養護学校

聞き手:練馬区専門委員 北沢邦彦
平成元年4月21日号区報

写真:花岡学院(旭町2-1 昭和初期)