8 北町の耕地整理

古老が語るねりまのむかし

大木 正治郎さん(大正14年 現・北町生まれ)

<耕地整理で田んぼが消えた>

 田柄・北町・錦の地域を流れる田柄川(今は暗きょ)の両側には、細長い田んぼが古くからありました。たいした広さではなく、よく水が枯れて、まあ、あまり期待できない田んぼのようでした。
 私はまだ子どもでしたが、昭和の初め頃にも干害がありました。そのため、耕作をあきらめて田んぼを手放したり、工場用地に貸したりする家が出ました。そして、こんなことから地主が共同して、一帯の田んぼをつぶし、畑地も合わせて宅地にしようという話になったのです。
 ところが、昭和7年になると、練馬が東京市に編入されることになりました(昭和7年10月、練馬全域は東京市板橋区となる)。そうなると土地の用途の変更は土地区画整理事業としてしか許可されなくなり、道路用地も随分幅広く取られてしまうことが分かりました。
 そこで、その前なら、あまり制約のない耕地整理事業として市街地整備ができるだろうという訳で、急いで組合をつくったというのが、耕地整理事業を始めた本音のようです(組合は7年9月、練馬第二耕地整理組合として認可。地域は、現在の北町の大半と錦。当時の宣伝広告の裏には住宅誘致の条件などが載っている)。

8 北町の耕地整理

<造兵廠(ぞうへいしょう)の倉庫ができた>

 耕地整理は、15年頃までに進められ、この計画の中で新しい川越街道もつくられました。
 ところで、今の北町小学校やNTT北町電話局の辺りは長い間草地になっていましたが、ここに15年に陸軍の造兵廠(兵器製造を管轄)の倉庫ができることになりました。倉庫は、その後、今の自衛隊練馬駐屯地の位置へ増設されました。
 土地は地主から借り上げるという仕組みで、地代は月に坪10銭でした。私の家では1千500坪分が入っていましたから、月150円の収入があったことになります(当時の巡査の初任給は45円)。
 上板橋駅から倉庫まで引き込み線が敷かれましたが、これは戦後にグラントハイツ建設(昭和23年6月完成)の際、ハイツまで延長されました。
 この倉庫があったためでしょうか、戦時中この辺りも空襲を受け、耕地整理組合の事務所が焼け、そこにあった書類も焼けてしまいました。後に、近くの阿弥陀堂(北町2-18-1)の所から、束になった焼夷弾(しょういだん)が見つかっています。

<倉庫跡は自衛隊駐屯地になった>

 戦後、倉庫は、アメリカ軍に接収されました。そのころ、倉庫には、絹布や石けん、コークス(地元の人は当時コーライトと呼んでいた)、材木などがたくさん積まれていました。特にコークスを指してでしょうか、ここを練馬炭鉱などと呼んでいた人もいます。それを黙って頂いてきた人もあったようです。
 この倉庫跡地に、26年9月、久里浜にあった警察予備隊(今の自衛隊)が移って来ました。土地は、25年頃、正式に買い上げられました。価格は、坪760円でした。資産再評価税で60円分を収めましたが、それでも手取り700円です。私の親は、1千坪分で家を1軒建てました。

聞き手:練馬区専門調査員 北沢邦彦
平成元年3月21日号区報

写真:練馬第二耕地整理組合分譲地(昭和16年)