7 鐘の鳴る丘(その2)

古老が語るねりまのむかし

佐藤 克彦さん(大正8年生まれ 高野台在住)

7 鐘の鳴る丘(その2)

<子どもの救済に向けて>

 戦争で焼け野原となった東京には、身寄りを失った子どもたちがあふれました。上野や日比谷の公園などをさ迷い、ガード下で靴磨きをする子もあり、中には生活の苦しさからスリや盗みをする子までいました。
 この頃、アメリカからフラナガン神父という方が日本を訪れ、こうした子どもたちの救済を強く訴えました。この方は、アメリカで孤児たちの収容施設「少年の町」をつくり、その後、この少年たちに自主独立の町を築かせた人として知られています。
 たまたま日本の少年問題を何とかしたいと思っていたCIE(米軍の民間情報教育局)は、このフラナガン神父の心を取り入れたラジオドラマを作り、放送する計画を立てました。
 この頃、東京では子供会の活動が活発で、私が世話役をしていた豊玉第二小学校のシロバト子供会では施設慰問にも出掛けています。また、児童劇も盛んで、ときには発表会も行われました。
 こうした中で、東京都主催の発表会で、「ある日の一茶」12部作の内から、シロバト子供会が演じた「アリと一茶」「セミと一茶」の2部作が最優秀賞を受けたのです。それをフラナガン神父の歓迎会の折に、披露することになりました。
 そして間もなく、NHKからシロバト子供会に、放送劇団の巌 金四郎さん(豊玉在住)を通して連続ラジオドラマ「鐘の鳴る丘」に出てもらえないか、という話がきたのです。

<「鐘の鳴る丘」に出演>

 そのお話を伺った時、ともかく問題が多すぎると思いました。何といっても、シロバト子供会はプロの児童劇団などではなく、豊玉第二小学校の学校劇クラブといった性格のものでしたから、学校運営上からも教育上からもさまざまな問題が生じるわけです。そこで、最初は固くお断りしたのですが、2度、3度とお話があり、その中で戦争孤児の救済という主旨の重大さを言われれば、それ以上お断りもできず、ともかく可能性に当たってみるしかありませんでした。
 結果は、学校、PTAのご理解と全面的な援助を得られることになり、お引き受けしたのです。一番心配された子どもたちの学業の遅れという面も、先生方のご協力の下に補習を行い、支障がなかったばかりでなく、どういうものか、部活動に取り組んでいる子は学業成績もよいのです。
 こうして、昭和22年7月5日から放送が開始されました。脚本は菊田一夫さん、音楽は古関裕而さんで、また、主題歌は音羽ゆりかご会の皆さんが歌っています。
 はじめは、週2回(土・日曜)の放送でしたが、これが大変な人気になり、すぐ月曜から金曜までの夕方、5時15分からの15分間に代わりました。最初の1年間は生放送(23年7月から、日本最初の録音放送となる)だったため、毎日子どもたちを連れてNHK通いでした。25年12月29日まで放送は続き、終わってみたら790回を数えていました。

聞き手:練馬区専門調査員 北沢邦彦
平成元年2月21日号区報

写真:「鐘の鳴る丘」2周年記念公演会(日比谷公会堂 昭和24年)