3 田や畑の中に工場があった

古老が語るねりまのむかし

八方(はっぽう)久雄さん(大正14年 現・下石神井生まれ)

<祖父が造った製糸工場>

 私の家は昔、製糸工場を経営してましてね。明治10年頃から大正10年頃まででした(大正4年の『石神井村誌』に「製糸業には八方久次郎氏のになれる製糸場ありて、盛んに生糸を製出す」とある)。
 祖父の代でしたから、詳しいことは私もよくは知らないのですが、一時期、女工さんが30人ほど働いていたそうです。機械の動力はボイラーを使っていましたね。このころは、近所で副業に養蚕をする家が多く、そうした家から繭(まゆ)を買っていたようです。製品は横浜に送りました。そこから海を渡って行きました。ずいぶん売れた時があったそうです。工場は多摩の組合に入っていて、祖父はよく立川へ出掛けてましたっけ。
 日本閣(中野区東中野五丁目)は昔、養魚場でしてね。コイを飼っていましたが、そのえさに家の蚕のさなぎを持って行ってましたよ。繭の糸を紡いでいくと、最後にさなぎが残るんです。

<ケチャップ工場があった>

 生糸も昭和になるとだめでした(村の養蚕も昭和4年の世界恐慌で衰えた)。冬作の麦は昔から作っていましたが、これからまた盛んになり、夏は野菜を作るようになりました。ダイコンも作りましたよ。この辺りで練馬ダイコンが盛んに作られたのは大正から昭和の初め頃でしょう。
 珍しいのはトマトでしたね。これは初め「赤ナス」と呼んでいたようで、出始めたころはにおいが強くて、あまり人気はなかったようです。
 そのせいでしょうか、これをソースやケチャップにして売り出す工場ができました。これは、現在の下石神井三丁目の所に、昭和10年頃にはできていました。近在の農家が資金を出し合ってつくった組合の経営でしたね(昭和8年の『石神井名所案内』に「丸石印トマト」の広告が載っている)。300坪(約1千㎡)ほどの敷地に、結構大きな建物で、20人くらいの人が働いていましたよ。ビール瓶のような瓶に、機械でケチャップを詰めていました。でも、あまり長くは続かなかったようです。

<田んぼが消えた>

 私の家では石神井川沿いに田んぼを3反歩(約29.7a)ばかり持っていました。この周辺(下石神井)の田んぼは、昭和30年頃、土地改良をして(昭和34年7月27日完了)、それまで入り組んでいたものを短冊状に整理したんです。ところが、それからすぐ田んぼをつぶして家にするところが出始め、次々に家が建っていきました。
 家を建てる人たちはいろいろな所から土を持って来て、田んぼを埋めました。この近くでは杉並の浄水場工事の時に出た土が使われたりしたようです(そのほか、荻窪周辺の地下鉄工事で掘った土も使われたという)。

聞き手:練馬区専門調査員 北沢邦彦
昭和63年10月21日号区報

写真:養蚕農家(昭和31年)