2 昔の豊島園と少年音楽隊

古老が語るねりまのむかし

清水 登さん(大正3年生まれ 練馬在住)

<豊島園ができるまで>

 今、豊島園内の高台になっている所、あそこは、大昔、豊島氏の練馬城があったという所で、大正までは、松なんかの林や草地だったそうです。
 この土地を、大正6年に藤田好三郎という人が買って、初めは、休暇などに都心から家族を連れて、ピクニックに出かけてくる場所にしていたようです。関東大震災(大正12年9月1日)後に、ここに邸宅を造ろうと思い立ったのを、考え直して、遊園地にして一般に公開したのが、豊島園の最初でした。
 工事は大正15年春から始まって、すっかり完成したのは昭和3年だったと思います。(この間の昭和2年4月29日に園遊会が開かれ、この日を開園日としている。また、今の西武池袋線練馬~豊島園間は昭和2年10月15日に開通、この辺りの開発のきっかけとなった)。
 石神井川沿いは深い田んぼでしたが、この田の泥を掘って大きな池を造り、また一方では、田を埋めて広い運動場を造りました。掘った泥は高稲荷の方へトロッコで運んでいましたが、これをどうしたものかは知りません。

<動物もいた>

 池にはボートを浮かべ、また高台から池に滑り降りるウォーターシュートが人気を呼んでいました。今のような乗り物はほとんどない時代でしたが、自然の風物には恵まれ、芝地や花壇、さらに園芸部といってブドウ園などもありました。ブドウは、園の入り口で土産用に売っていました。
 中之橋川の入り口を入った所に動物の檻(おり)があって、サル、ゾウ、キジ、クジャクなどが飼われていました。
 このころの豊島園は、年中開園していたわけではなく、11月の霜が降りるころから翌年3月の彼岸までは、地面がぬかるむため、閉園となっていました。開園中はいろいろな催しがあり、夏は夜の花火や屋外劇場でのバレエなどが行われ、時には若いころの中村勘三郎など若手歌舞伎役者を招いて、青年歌舞伎が行われたこともありました。

<少年音楽隊>

 当時、園には専属の少年音楽隊がありました。14歳から16歳の少年たちで、私も昭和3年の結成の時からメンバーに入り、ホルンを吹いていました。ちゃんとお給料も出たのです。
 今のメリーゴーラウンドの所に音楽堂があって、ここで午前10時、午後1時・3時の3回、定期演奏をしていました。また、夏は夜間演奏もあり、ときには外の演奏会に呼ばれることもありました。日比谷公会堂にもよく行きました。園が休みになる冬には、特に関西を回って演奏を重ねたものです。
 この少年音楽隊も、当時の園の経営が思わしくなくなった昭和7年に解散しています。園の経営はその後一転、二転し、今の豊島園に生まれ変わっています。

聞き手:練馬区専門調査員 北沢邦彦
昭和63年9月21日号区報

写真:絵葉書(豊島園の音楽堂 昭和4年)