4 大泉の農業風景

古老が語るねりまのむかし

加藤 ウメさん(明治37年生まれ 東大泉在住)

<牛で脱穀>

 私は、大正10年に保谷から今の家(東大泉四丁目)へ嫁に参りました。当時はまだランプの時代で、水は井戸からつるべで汲んで使っていました。この辺りは、水がとてもよいのです。
 今日は、農業のお話でしたね。家では人にお貸ししていた畑は別にして、田んぼを5反歩(約49a)ばかり、畑は3町歩(約297a)ほど作っていました。私が嫁入りした頃は住み込みの若い衆が居て、農作業のお手伝いをしてくれました。群馬県や千葉県、埼玉県の片山などから来ていた人たちです。
 そのころ一番多く作ったのは、麦とおかぶ(おかぼ=陸稲)でしたね。特に、麦は大麦と小麦で、一町歩(約99a)ほど作りました。大麦は家で食べ、小麦は売るのです。
 収穫した麦は足踏みの機械で穂を落とし、これを庭いっぱいに少し厚く広げて、その上を牛に荷車を付けて引かせました。車輪で押して実と殻を分けるのです。その昔はクルリ棒を使って麦を打っていました。
 牛は、昭和初めころに買い入れました。荷車を引かせるのが目的です。

<スイカ畑に寝たことも>

 野菜では、ダイコン、ゴボウ、ニンジン、サトイモ、ラッキョウ、豆類などを作りました。ダイコンは5反歩ほどで、戦前の一時期にはたくあん漬けを作り、専業者や都心の八百屋に出していましたが、戦後は生ダイコンだけになりました。これも戦前ですが、お茶を40貫(150㎏)ばかり作りました。これは随分手が掛かったものです。
 戦争が近くなる頃には、若い衆が国に帰り(本人や兄弟が徴兵されたため)、働き手が少なくなって、いよいよ機械や牛に頼ることが増えました。
 だから、昭和21年に娘に婿をもらった時は、ずいぶん心丈夫でした。婿が来てからは、苦労の多いお茶などはよしました。ダイコンは30年頃まででだめになって、後はキャベツに替えました。キャベツは連作が利いて手間も掛かりません。
 これより少し前の一時期に、種なしスイカを作ったことがあります。ところが、これを夜持って行く人がいて、私の娘などはスイカの番をすると言って、畑に寝たこともありました。

<最後の田んぼ>

 30年頃には、一時、鶏を200羽ほど飼って卵を出荷しましたが、これも手が掛かり、長くは続きませんでした。一時よかったのは芝でしたね。ゴルフ場や練習場が盛んにできた頃です。これは杉並の「シバマン」という会社に売っていましたが、52~53年頃につぶれて、それから芝はやめました。今はキャベツやブロッコリーが中心です。
 白子川沿いにあった田んぼは、昭和30年頃、土地改良をして(31年終了)、短冊状に整理しました。これからは米もよくとれるものと思っていましたが、まもなく周囲の田んぼがつぶされて家が建ち始め、とうとう私の所も41年でやめました。この辺りでは一番最後の田んぼでした。

聞き手:練馬区専門調査員 北沢邦彦
昭和63年11月21日号区報

写真上:牛車(農耕からの帰り  昭和10年)
写真下:水田(大泉町三丁目、大一小付近  昭和31年)