≪12月≫ 農作業も終り、ホッと一息

ねりま歳事記

≪12月≫ 農作業も終り、ホッと一息

ことじまい(12月8日)

 毎年2月と12月の8の日を八日節供とか、お事始め、お事仕舞い、あるいはお事納めと呼んでいる。練馬区のほとんど全域で、2月8日を事始め、12月8日を事仕舞いとしているが、反対に12月を事始め、2月を事仕舞いとする所もなくはない。それは、コトを一年の仕事即ち農事とするか、或いはただ単に正月の祝い事を指すかによって、始めと終りが異なることになる。
 いずれにしても、昔この日には鬼や悪魔がやって来るという俗信があって厳重に物忌みをする日であった。その晩は履物を外に出したままにしておくと、一ツ目小僧が来て履物に判を押して行き、それを履くと病気になるといって、必ず家の中にしまうようにしていた。
 邪気を払い、妖怪を退散させるまじないに、目の大きな籠や、目の数の多い籠を竹竿の先につけて軒にかかげた。門口にはヒイラギの葉を差し、炉端でサイカチの実や、ネギなどにおいの強いものを燃した。
 目籠を高く揚げるのは、一ツ目小僧が自分より目の多い奴がいると思って近寄らないからだといい、くさいものは悪魔が嫌うので、それを追払うためだという。
 この日はけんちん汁を作って食べることが習わしであった。イモ・ゴボウ・ニンジン・ダイコン・アズキ・コンニャク・豆腐・クワイ等6種を汁にしたもので、六質汁(むしつじる)ともお事汁ともいった。
 また女の人は、ふだん使って折れた針を集めておき、この日それを豆腐に刺して淡島明神(淡島さま)に納め、一日、裁縫を休んだ。これを針供養という。

関のぼろ市と歳の暮

 お事仕舞いが終るといよいよ正月の準備にかかる。だからこの日を事始めにする所があるくらいである。
 正月は盆と並んで先祖の霊を迎える重要な催事であった。家々ではその霊を出来るだけ手厚くあたたかに迎える支度をする。歳暮の由来は暮れに行われる祖霊への供物に始まる。親の家の仏壇に子供たちが、本家の仏壇に分家の者たちが、歳暮として供え物を上げるのが、歳暮の本来のかたちなのである。

 
 9日には大泉を中心とする日蓮宗寺院の最後のお会式が関の本立寺で行われる。同時に門前では、通称「関のぼろ市」が開かれる。この市は江戸時代から妙福寺の市と共に近郷近住に知られた市であった。特徴的なのは世田谷の「ぼろ市」もそうだが、昔は冬の衣類が多く、とりわけ古着や古物がたくさんでることで「ぼろ市」の名で呼ばれた。ここには、みそこしや鍋釜など日用品から、毎日使う農具までないものはなかった。現在の市にもその面影が残っている。

 スス払いが終って月も半ばを過ぎるとあちこちの町角によしず張りの歳の市が立つ。しめ縄や松飾り、ダイダイ、ウラジロなど暮から正月へかけて先祖の霊を祭る仏壇や、歳徳神を祀る神棚に供えるものがそこで新調される。
 冬至は北半球では昼がもっとも短く、夜がもっとも長い。昔の人はこれを太陽が一番衰微した日と考えた。しかし当時の日本人は、冬至の夜は明日から再び太陽が元へ戻り始め、春をもたらし幸運を約束する神が来臨すると考えた。だから今でも冬至の夜はユズ湯に入り、カボチャを食べて無病息災を祈り「一陽来復」の護符を恵方(その年の良い方角)に張ることが行われている。
 昭和10年頃までは正月は月おくれの2月であったが、新暦で正月をやるようになってからは、20日頃から餅つきが始まる。どこの家でも米、あわ、きび、もろこしなどの餅を4斗俵で10俵以上もつく。隣近所が助け合いながら、夕方からつきはじめ翌朝までかかるのが普通であった。餅は農家にとって欠かせない保存食であったので、こうしてついた餅は水餅にして来年の夏頃まで食べた。

12月のこよみ
 昔は11月中旬から12月中旬にかけて、どこの農家でもたくわん用の大根干し作業が行われた。練馬の冬の風物詩であった。
   8日 お事仕舞い
   9日 本立寺お会式
 9・10日 関のぼろ市
   22日 冬至
   31日 大晦日

このコラムは、郷土史研究家の桑島新一さんに執筆いただいた「ねりまの歳事記」(昭和57年7月~昭和58年7月区報連載記事)を再構成したものです。
こよみについても、当時のものを掲載しています。

写真上:しめ飾り売り(千川通り・豊玉北6丁目 昭和30年)
写真中:関のぼろ市(昭和50年)
写真下:大根干しの風景(関町 昭和55年)