≪10月≫  生活の中に生きている〝月〟

ねりま歳事記

十五夜(10月1日)

 練馬の年中行事は旧暦、新暦、月おくれで行うものが混じり合っている。旧暦は主として月の運行をもとに作られ、明治初めまで一般に用いられた太陰暦のことである。明治5年(1872)12月3日、従来の太陰暦を改め、太陽暦の6年1月1日とした。これが現行の暦で新暦と呼んでいる。しかし新暦では秋の収穫以前に感謝祭の日がくるなど暦日と習俗の間に矛盾が生じた。そこで考えられたのが行事を一か月遅らせて行う月おくれの方法である。つまり新暦と旧暦を折衷したもので、練馬の年中行事の多くは、この月おくれで行うようになった。そうした中で旧暦でなければならない年中行事がある。それは太陰暦の8月15日、中秋の名月である。
 むかし暦の無かった頃の人びとは、月の満ち欠けで日を数えた。特に満月は印象的で、村の年中行事は月の15日に行う例が多い。1月の小正月、6月の天王様、7月のお盆、11月の七五三など、みな月の15日である。
 十五夜にはだんごや、まんじゅうと、柿・栗・里芋・さつまいもなど庭や畑で穫れたものに、すすきやおみなえしなど秋の草花を添えて縁側の机に飾る。よその家の供え物は盗んでもかまわない風習がある。お月様には、本当に兎が餅をつく姿を見る思いがしたものである。
 三宝寺池北畔に殿塚・姫塚の史跡がある。石神井城落城のとき、城主と姫君が池に入水して果てたという悲話が残っている。この姫塚は、また照日塚とも言われ別の伝説がある。むかし、三宝寺六世の住職が京にある時、折から宮中で催された月見の宴に招かれ発句を所望された。筆をとった住職は短冊にさらさらと「月は無し」と書いた。美しい満月をめでていた人びとは当然いぶかった。が、詠み終えた句をみて一同はみな感嘆した。
 月は無し 照る日のままの 今宵かな
今夜の月はさながら太陽の輝きのようだというのである。帝は住職に照日上人の号を贈って誉め称えた。この塚は上人の墳墓だという。
 29日は旧暦9月の十三夜である。十五夜を祭って十三夜を祭らないと「片月見」といって、よくないといわれる。区内には錦の金乗院に月侍六地蔵や、下石神井の天祖神社に二十三夜塔など、昔の人びとが月を祭って祈った石造物が今も残っている。

≪10月≫  生活の中に生きている〝月〟

荒神様のおたち(10月30日)

 最近、区で発行した「わたしの便利帳」の表紙に、各月の異名と代表的な年中行事が紹介されているが、10月は神無月(かんなづき)と呼ぶ。旧暦の10月は全国の神々が出雲に集まるので地方には神様がいなくなる。その神々の出発の日は旧暦9月30日、帰来の日は10月30日ということになっている。練馬では月おくれで10月30日が「荒神(こうじん)様のおたち」の日、お帰りは11月30日である。荒神様には36人の子供がいるので、その日にはだんごを36個作って供える。荒神様は、ふだん厨(くりや)に祭られオカマ様とも呼ばれている。また家族の守護神であり、縁結びの神様でもある。おたちには新しい幣束と馬の絵馬を上げ、お帰りには鶏の絵馬を上げる。良縁を鳥に乗って早く持って来ていただくためであるという。
 絵馬がすっかり正月の縁起物ばかりになってしまった昨今、練馬の農家ではまだ初午の狐の絵馬と、荒神様の馬と鶏の絵馬が、欠かせない神様への奉納物の一つとして生活信仰の中に生きつづけている。今も区内には絵馬を造っている絵馬屋や、それを売っている店がある。

10月のこよみ
  1日 十五夜。田柄天祖神社祭礼
     都民の日(明治31年10月1日東京市が府から分離、独立市制をはじめて実施した記念日)
   3日 土支田八幡、東大泉北野神社祭礼
   10日 練馬区民祭。体育の日
16・17日 石神井氷川神社祭礼(献花や和太鼓、剣道の試合などが奉納される)
   29日 十三夜(後の月ともいう)
   30日 荒神様のおたち

このコラムは、郷土史研究家の桑島新一さんに執筆いただいた「ねりまの歳事記」(昭和57年7月~昭和58年7月区報連載記事)を再構成したものです。
こよみについても、当時のものを掲載しています。

写真:姫塚(照日塚)