旧地名9<下石神井村 しもしゃくじいむら>

ねりまの地名今むかし

現在の石神井町下石神井上石神井南町

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旧地名9<下石神井村 しもしゃくじいむら>

 『新編武蔵風土記稿』は下石神井村の小名(こな)を伊保ケ谷戸(いぼがいと)、根川原(ねがわら)、坂下、和田、北原、池淵、上久保、下久保と記す。
 伊保ケ谷戸は石神井川の南、下石神井5・6丁目をいう。西は上石神井村と接する。イボは疱瘡のことで、むかしは悪病のひとつであった。村境には疱瘡神を祀って、疫病神を防いだ。その小祠(しょうし)があったのであろう。今も禅定院(ぜんじょういん 石神井町5-19)の境内にイボ地蔵と呼ぶ石仏がまつられている。
 ボート池と石神井川に挟まれた台地を小中原(こなかばら)といい、台地の下、石神井川の北側を根川原という。川原の礫地(れきち)であることが多い。いま根ケ原橋がある。
 坂下は現在の坂下橋付近ではなく、坂下公園(下石神井3-4)辺りをいう。
 和田は石神井町1~4丁目の広範囲をいう。今も和田稲荷、和田橋、和田堀緑道、バス停名などにその地名が残る。ワダは川の曲流部をいうが、ここは正にそうした場所である。石神井川に沿うところを和田前という。
 北原は富士街道の北側、石神井町7・8丁目付近。村の北に新しく開けた所という意である。
 池淵は文字通り三宝寺池の周囲をいう。上石神井村にも同じ地名がある。明治になって現在のボート池の北側、石神井町6丁目の小字となったが、本来は池の北も南も池淵といった。延宝2年(1674)の検地帳、最近発見された安永3年(1774)の村明細帳や、幕末ころの村絵図はこの辺りを「秀月」と記している。今はその呼び方も判らない。
 久保は下石神井1・2・4丁目一帯。地名の久保は窪地のことをいう。上久保、下久保、久保台(別名 向三谷(むけざんや))、遅野井(おそのい)久保(別名 原久保、現 上石神井南町)などにわかれる。向三谷は上井草村(杉並区)の小字三谷と、井草川を間に向い合っているからである。遅野井久保の遅野井は上井草の別称である。

ねりま区報 昭和61年2月1日号 掲載

このコラムは、郷土史研究家の桑島新一さんに執筆いただいた「練馬の地名今むかし」(昭和59年6月~昭和60年8月区報連載記事)と「練馬の地名今むかし(旧地名の部)」(昭和60年11月~昭和61年4月区報連載記事)を再構成したものです。