現地名27<下石神井 しもしゃくじい>

ねりまの地名今むかし

 江戸時代以前の下石神井村は上石神井村と一つの郷であった。上下二つの村に分かれるのは、正保年間(1644~8)に書かれた『武蔵田園簿(むさしでんえんぼ)』からである。そのころ幕府の命令で、大きな村は二つに分割された。上、下練馬村も同じである。
 明治維新で東京が首都となった。鉄道も東京へ向かって上りというようになった。それ以前は京都が中心だったので、京から江戸へは“下り”であった。品物も京からの「下り物(くだりもの)」は高級品で、江戸で出来る品は"くだらない"物であった。地名の付け方も京に近い方が上(カミ)、遠い方が下(シモ)である。石神井や練馬でも西が上、東が下である。
 明治22年、町村制施行で石神井村大字下石神井となり、昭和7年、板橋区成立で下石神井1、2丁目となった。2丁目は石神井川より北、今の石神井町である。1丁目は昭和48年、旧南田中町の一部を合併して、住居表示が実施された。歴史的な地名、下石神井は健在である。
 天祖神社(てんそじんじゃ 下石神井6-1)境内、延宝2年(1674)の庚申塔に「石神井郷神明村」と彫ってある。この辺を俗に神明村と呼んでいたらしい。天祖神社は昔、神明様といっていた。
 御嶽神社(おんたけじんじゃ 下石神井4-34)は明治から大正にかけて、区内で盛んだった御嶽信仰のたたずまいを残している。

現地名27<下石神井 しもしゃくじい>

写真:天祖神社(昭和31年)

ねりま区報 昭和60年4月21日号 掲載

このコラムは、郷土史研究家の桑島新一さんに執筆いただいた「練馬の地名今むかし」(昭和59年6月~昭和60年8月区報連載記事)と「練馬の地名今むかし(旧地名の部)」(昭和60年11月~昭和61年4月区報連載記事)を再構成したものです。