三宝寺池の主は…… 石神井川水系の伝説(1)

ねりまの川

 石神井川の支流は大半が練馬区域に集中していて、その支流の先には湧水池(ゆうすいち)のある場合が一般でした。こうした池や沼の付近には多く水神(弁天・水天宮など)が祀(まつ)られ、人々がいかに水源を重視していたかがしのばれます。

<関の溜井(ためい)に飛来した怪鳥>

 現在の武蔵関公園富士見池の前身の関の溜井は、寛政6年(1794)頃の地誌『四神地名録』には「水の湧所二百間(約360m)余の池有り」と記され、『新編武蔵風土記稿(1810~1828年)』には「広さ六十間(約108m)もしくは百間(約180m)程」とあります。明治14年測量の「迅速測図(2万分の1)」には2か所に池らしいものが描かれていますが、この池のほとりには溜淵(ためぶち)の旧地名で知られる縄文時代などの遺跡が発掘され、地域の歴史の古さが推測されます。
 江戸時代末ごろの池の様子を先の『四神地名録』はおよそつぎのように伝えています。
 一面にアシやカヤが生じ、池ともみえないが水の出ることおびただしく、5月入梅の節にはこれより下の村々に水害が起こるというのも、川がない地域(『新編武蔵風土記稿』には溜井から流れ出す水路は手を加えて用水とした、とある)であるのに不思議なぐらいである。
 また、夜12時を過ぎるとあたりに響くようなうなり声がして、村人が集まり、石を投げるなどしたところ大きな鳥が飛び立った。これを蘆切鳥(あしきりどり)と言った人があるが、そのような大きな鳥は聞いたこともない云々―。
 『新編武蔵風土記稿』には関村(主に現在の関町東・南・北の地域)は多年水害に悩まされていたところ、幕府の役人武島菅右衛門が巡見し、農民を憐れんで自ら尊崇していた弁天の木像を与え、これを溜井の側に安置したとあります。
 この池も昭和13年10月、武蔵関公園として整備され、今日では湧水が少なくなり、地下水を汲み上げています。

<三宝寺池には竜がいる?>

 『新編武蔵風土記稿』には、三宝寺の側にあるところから三宝寺池と称するとあります。また古くは大きさ4~5町(約400~500m)四方あったが、この当時(19世紀初め)は東西60間(約180m)余り、南北50間(約90m)余りとなり、水面清く、どのような干ばつ時にも水が減ることがないとあります。さらに池中に多くの蓴菜(じゅんさい)を生じ、ここに生息する魚は頭に鳥居の形があると伝え、これを捕まえる者は必ず祟(たた)りがあったと記しています。
 古老の中にはこの言い伝えを子どもの頃に聞かされたという人もいて、さらにこの池の水は夏は冷たく、泳ぎは禁じられていたとも言い、その割に冬は温かかったものか、凍結しなかったと伝えています。
 『四神地名録』には水鳥、コイ、フナも多く、卯月(うづき=陰暦4月)のころからは大鷭(オオバン=クイナ科の大形の鳥)が来ると記しています。
 この池には伝説も多く、その一つに竜の形をした主がいたというものがあります。明治8年9月にこの姿を見たという人の描いた絵が三宝寺に保存されているそうです。また、同池の南側台地上は豊島氏の石神井城跡として知られ、城主豊島泰経と照姫の悲話が伝えられています。
 なお、石神井公園は、昭和5年に一帯が風致地区に指定されたことをきっかけに整備され、同9年にボート池が完成するなど幾変遷を経て今日に至っています。三宝寺池のほとりには厳島神社や穴弁天など水神が祀られていることはよく知られています。

三宝寺池の主は…… 石神井川水系の伝説(1)

昭和61年8月21日号区報
写真上:石神井村名勝絵葉書より(石神井公園ふるさと文化館蔵)
写真下:三宝寺池(大正8年)

◆本シリーズは、練馬区専門調査員だった北沢邦彦氏が「ねりま区報」(昭和61年4月21日号~63年7月21日号)に執筆・掲載した「ねりまの川-その水系と人々の生活-」、および「みどりと水の練馬」(平成元年3月 土木部公園緑地課発行)の「第3章 練馬の水系」で、同氏に加筆していただいたものを元にしています。本シリーズで紹介している図は、「ねりま区報」および「みどりと水の練馬」に掲載されたものを使用しています。