旧石神井川復元

ねりまの川

<地図と川>

 古い川の形状を尋ねるには、絵図などに描かれたものを見るのが第一です。
 江戸時代の石神井川下流部(江戸周辺)は、「江戸図」(特に天保年間(1830~43)、安政4年(1857)、万延元年(1860)発行のものなど)に描かれています。そのほかの部分は、弘化元年(1844)の「東都近郊全図」のような概要図、部分的な「村絵図」、さらに『江戸名所図会』『四神地名録』などの紀行文の挿入絵や広重による下流部の絵などに見られます。しかし、上流を含めて川全体の正確な形を知るためには、明治以降の近代地形図や地籍図の発行を待つことになります。
 明治2年前後に、村ごとに、田畑や道、川などを色分けして描いた詳しい村絵図が作製され、10年には、地租改正に伴う600分の1の小字別地籍図が作られました。さらに13年ごろには、日本で最初の近代地形図、旧陸軍の参謀本部による「迅速測図」が作られ(明治20年発行、2万分の1)、ようやく石神井川の全体の姿が浮かび上がりました。
 これからは、主にこの地形図をもとに、石神井川の旧状を復元してみましょう。

<富士見池を経て荒川へ>

旧石神井川復元

 その源頭は、前回にも触れた小平市内の旧鈴木新田にありますが、この地図では、さらに西南に水路が延び、玉川上水と結ばれています。
 これは、源頭部にあった旧火薬製造所の水車に玉川上水の水を導いたもので、その余水が石神井川に注いでいたためでした。
 石神井川の流れは、田無市(現西東京市)内青梅街道南側で、西北から流れて来る田無用水の流末を加え、旧上保谷村に入ります。さらに、現早稲田大学東伏見グランド付近の湧水を合わせて、練馬区域にさしかかります。
 現在の富士見池付近に、かつて広さ60間(1間は約1.82m)もしくは100間程の溜池「関の溜井」(『新編武蔵風土記稿』)がありました。これから湧く水を加え、付近の水田を潤しながら、石神井地内へ入ります。ここで北の三宝寺池から流れて来る水を合わせて、さらに東へ流れ、谷原交差点南の崖下で湧いていた「つきの井」の水を流入します。その後、貫井から練馬にかけての湧水を加え、現桜台先で千川上水からの分水を受け、板橋区域に入ります。
 そこで、西北から流れて来る田柄川と合流し、川越街道を越えたところの堰(せき)から十条方面に用水を分派します(「根村用水」)。滝野川の先で、王子方面への「三か村用水」を分け、本流は荒川に向います。

<豊島氏の開いた水路?>

 飛鳥山東側で、尾久方面への「二十三か村用水」が延びていますが、注目されるのは飛鳥山西脇から引かれ、南方で谷田川に合流する用水で、これも古くは石神井川の一流であったとする説があります。鈴木理生氏著『江戸の川・東京の川』などによれば、これがむしろ石神井川の本流で、王子の滝から東へは人工で水路を切り開いたのではないかというものです。これを行ったのは、豊島氏であろうと記しています。
 それはともかく、多くの「江戸図」には、飛鳥山東脇を通って、不忍池に流れ込む水路を描いたものが多いようです。「迅速測図」では、途中の水田を経由して、谷田川と結ぶ水路が表わされているのが印象的です。

旧石神井川復元

昭和61年6月21日号区報
図:旧石神井川水系要図
写真:武蔵関公園富士見池(昭和31年頃)

◆本シリーズは、練馬区専門調査員だった北沢邦彦氏が「ねりま区報」(昭和61年4月21日号~63年7月21日号)に執筆・掲載した「ねりまの川-その水系と人々の生活-」、および「みどりと水の練馬」(平成元年3月 土木部公園緑地課発行)の「第3章 練馬の水系」で、同氏に加筆していただいたものを元にしています。本シリーズで紹介している図は、「ねりま区報」および「みどりと水の練馬」に掲載されたものを使用しています。