32 大泉風致協会設立のころ ~大泉学園町の昔(2)~

古老が語るねりまのむかし

加藤 喜平さん(大正8年生まれ 大泉学園町在住)

<大泉風致地区>

 

 
 大泉村が東京市に編入された昭和7年ころ、自然や農地を保護するため、大泉一帯から土支田の方にかけての地域を「風致地区」にしようという計画がありました。そして、8年に地区指定され、9年には「大泉風致協会」ができました。

 今の大泉公園(大泉学園町六丁目)付近一帯の土地(当時は妙福寺などの所有)を東京市と風致協会で借り、大泉公園のところに野遊場(ピクニックができるような広場)を、その周辺に市民農園をつくりました。農園は、東京市街地の人に売ったり(管理は付近の農家)、カンショ(サツマイモ)を栽培して、市街地の人や学校の生徒たちを呼んで掘らせたりしていました。

 風致協会の運営費を支えたのは落葉でした。そのころ、農家にとって、落葉は堆肥(たいひ)や燃料として重要なもので、いくらでも欲しいといった状況でした。一方で、箱根土地会社(現 西武鉄道の前身)から山林などを買った人たちは、そこに積もる落葉の掃除に手が回りませんでした。そこで、風致協会では、それぞれの中継ぎをして、両社から手数料(会費)をもらい、これを運営費に当てていました。また、市街地の人をカンショ掘りに呼んで得た代金のうち、農園の耕作者へ耕作料を支払った残りも運営費に当てていました。
 こうした運営形態だったことから、戦後、宅地化が進み、山林が失われると、風致協会も立ち行かなくなり、昭和45年ごろにはほとんどその機能を失う状態になりました。

<大泉学園駅は3度目の駅名>

 
 大泉学園駅は、大正11年に仮小屋ができて、翌12年の暮れにハイカラな三角屋根の駅舎ができ、13年に開駅しました。このころの駅名は、村名をとって「大泉駅」といいました。
 その後、昭和7年の東京市編入に伴い、駅のある辺りは東大泉という地名となったため、駅名も「東大泉駅」に変わりました。そして、翌8年には「大泉学園駅」に変更されました。学園都市建設の名残です。

<家に焙炉場(ほいろば)があった>

 私の父は、畑作のほかに、稲を作るのが好きで、白子川沿いの田んぼを4反5畝(約45a)借りて米を作っていました。この辺りは黒土で、よい米はできず(北の新河岸川、荒川流域は赤土<アラキダといった>で、よい米ができた)、収穫した米の多くを地代として地主さんに払っていました。
 畑では、できる限りいろいろな野菜を作っていました。畑の周りにはお茶を作り、春にはこれを摘んで、自家用のものは家の中にある焙炉場で精製しました(焙炉は茶を精製する道具)。家にはカマドが3つあり、戸口近くの焙炉場寄りのカマドは一番大きく、茶の葉を蒸すときはこれを使いました。
 自家用以外のお茶葉は、戦前まで諏訪神社(西大泉三丁目)前にあった「助さん」という仲買さんに生のまま売りました。助さんがやめてからは野瀬さんという家に買ってもらいました。
 この大カマドは、お祭りなどに人が集まったときとか、餅(もち)つきのとき、みそを作るときにも使い、また、夏には行水の湯を沸かすのにも使いました。

聞き手:練馬区史編さん専門委員 亀井邦彦
平成3年7月21日号区報

写真上:昭和10年頃の市民農園(絵葉書 東京大泉名所絵図)
写真下:大正13年頃の大泉駅(絵葉書 東京大泉名所絵図)