21 富士見台周辺の農業

古老が語るねりまのむかし

大野 浅次郎さん(明治31年生まれ 富士見台在住)

<父親は大工だった>

 私の父親は16歳で大工になりました。初めは家大工(やだいく)として、谷原村やその周辺の、主に農家をお得意にしていましたが、そのうちに綿撚糸用の座繰(ざぐ)り機械をつくるようになりました。
 近在に、宮本さんとか谷治さんという綿撚糸の工場ができ、明治末ごろから大正末ごろにかけて、一般農家でも、特に冬場の内職に、糸撚(よ)りをするところが増えたのです。
 そのころ、家には畑が1町歩(約1ha)ほどしかありませんでした。父親は大工の仕事が忙しいため、畑の方はそのほかの家族の仕事でした。家では、子どもも10歳になれば家業の手伝いをさせられ、私も、朝は庭掃き、夜は糸撚りの手伝いをしたものです。
 私は、同期では1人だけ高等小学校まで通わせてもらいましたが、卒業と同時に、山善という漬物で知られた家に奉公に出ました。父親は、長男の私には農業をさせる決心をしたのです。

<練馬大根は大正末ごろから>

 私が奉公に出たころ、家の周辺では養蚕とお茶が盛んで、家でも1町歩の畑の内、3反(約0.3ha)ほどは桑を作っていました。お茶は、畑の周辺などに作りました。残りは麦と自家用の野菜を作る程度で、冬場に綿の糸撚りの内職をするという生活でした。有名な練馬大根は、この付近では大正末ごろになって、養蚕や綿撚糸と入れ替わりに、盛んに作られるようになりました。
 私が農業で一本立ちしてから、耕地を増やしました。元の1町歩のほかに、3町歩を借りたのです。この中には、石神井川沿いの田んぼもありました。
 大正13年ごろから、私の家でも練馬大根を作り、一時は四斗樽(しとだる)で1千樽ほどのたくあんを漬けて、江東市場などに出しました。昭和の初めごろには、野菜などもいろいろ作るようになりました。キュウリ、トウナス、ジャガイモ、マクワウリ、スイカ、ゴボウ、ニンジン、それに煮物用のダイコンも作っていました。このダイコンは「ツマリ」といって、首も太く、尻尾が短く、練馬大根とは異なった形をしています。以前には東長崎や池袋辺りで作っていたのが、こちらへ移って来たのです。
 私の家では、たくあん漬けは、昭和11年~12年ころまで続けましたが、漬物石を置くなどの作業が大変で腰を痛めたこともあって、それからは野菜中心に切り替えました。しかし、太平洋戦争が始まるころには農産物の統制が行われて、自由に作物が作れなくなりました。

<供出制度>

 太平洋戦争が始まるころから食糧の配給が行われるようになりましたが、作物を作る側の私たちには、「供出」が義務付けられました。農家の耕地面積に応じて、何をどれだけ作って納めるように、と決められたのです。麦やサツマイモ、ジャガイモなどが中心でした。収穫期になると東京府から検査官が回って来て、庭に積み上げた作物を調べ、割り当てに足りないと、家捜しまですることがありました。これが嫌さに、不足分を買ってまでして納めた人もいました。多い分にはいくらでも買い上げましたが、このころは働き手を戦争に取られ、思うように農業もできず、生活に追われて苦しんでいた人も多かったのです。

<石神井川沿いの田んぼ>

 谷原交差点南側に、弁天様の池がありました(現在は祠(ほこら)が残るのみ)。そこから弁天川が流れて、石神井川沿いの田んぼにかかる用水になっていました。この辺りの田んぼは、腰までつかる深田でした。ここで、昭和18年ころから、川筋を真っすぐにして耕地を整理する工事が始まりました。戦後も2年くらいかけて、付近の人も手伝って、泥をリヤカーで運んだりしました。そうしてできた田んぼでは、戦前で1反歩当たり玄米4~5俵しか取れなかったものが、6俵以上取れるようになりました。
 ところが、昭和30年ころからだんだん田んぼをやめる家が出て、33年の狩野川台風で水びたしになってからは、私の家もやめてしまいました。

21 富士見台周辺の農業

記録:練馬区史編さん専門委員 亀井邦彦
平成2年5月21日区報

写真:狩野川台風の被害(昭和33年)