20 昭和初めごろの豊島園周辺

古老が語るねりまのむかし

 福島 勉さん(大正3年生まれ 春日町在住)

<練馬に家を造る>

 私は、北豊島郡高田町(現・豊島区東池袋五丁目)で育ち、昭和7年に東長崎(現・同区南長崎四丁目)に移り、さらに昭和9年に現在地(春日町一丁目)に来ました。
 父親は、板橋、十条、赤羽、王子各地区にあった陸軍造兵廠(ぞうへいしょう =兵器を製造する所)のうち、十条に勤めていました。その父が、判任官(旧制度での役人の等級の1つ)に昇任したときに、1千円の慰労金をもらいました。それを私たち子どもに分配してくれるというので、家族会議で、家を造ることに決めたのです。それが、今の土地に移るきっかけでした。
 その頃、この辺りは広い畑地で、地価は、坪7~10円といわれていました。本当は、土地も買いたかったのですが、地主さんから先祖伝来の土地だから売ることはできないと言われ、取りあえず240坪を宅地としてお借りすることにしました。その後、地続きで、畑地を130坪借りましたが、地代は、1か月、宅地が坪7銭、畑地は坪3銭でした。道路の南側は豊島園で、家の北から西にかけての一帯は畑が広がり、庭から富士山がよく見えました。
 畑では小麦やダイコン、ニンジンなどを作りました。練馬大根は、素人の私でもよくできましたが、数年後には育ちが悪くなり、虫も付いて次第にだめになりました。昔からの連作がたたったのだと言われました。

<寂しかった豊島園駅前>

 最寄りの駅は、豊島園駅ですが、そのころの電車は木造で、ドアは手動式、2両編成で練馬駅との間を折り返しで走っていました。私は蒲田の会社へ通っていましたが、朝6時10分の始発に乗るのは、いつも私1人といったあんばいでした。
 豊島園駅前も寂しく、今もある美春庵という、そば屋さんくらいしかなかったように思います。駅から家に向かう道は、豊島園正門前の細い道路で、通称「鎌倉道」といっていました。豊島園と道との境にはヒノキの生け垣があり、これが枝葉を繁らせていて、月明かりの無い夜は真っ暗で、うっかりすると首を引っ掛けるため、新聞紙を筒のように丸め、生け垣をサラサラ触りながら歩いたものです。

<石炭殻で田を埋める>

 豊島園は、大正末にできましたが、できる前の石神井川北側は、深い田んぼで、田下駄(げた)をはいて農作業をしたそうです。稲作も、苗を植えるのではなく、籾(もみ)をまく方法だったといいます。
 この田んぼを造成するときには、今の旭町にあった製紙工場で使った石炭の殻をトラックで持って来て、土と一緒に埋めたということを聞きました。

<宅地化で枯れ始めた井戸>

 石神井川は、まだ自然の川で、ホタルが私の家まで飛んで来たものです。この川の南側にあるお菓子と煙草の店、三増屋さんは、当時からありました。中之橋を北に渡ると畳屋さんとブリキ屋さんがあって、今の春日町1-2の所に住宅が3軒、さらにバス通りを左折した豊島園の北側道路沿いに住宅が3軒と、「たっぱた(田の端)」という屋号の酒屋さん、それに八百屋さんがあり、八百屋さんの隣に大正末頃開業したという歯医者さんがありました。この歯医者さんは、治療費を「有る時払い」にしてくれたり、野菜などで受け取ってくれたりしたので、近在では大変評判がよかったものです。
 豊島園南側の城南住宅は、関東大震災直後から造成されていますが、石神井川から北側の宅地化は、昭和30年頃から進みました。早宮3-48の一帯には、30年代半ば頃、区営の分譲住宅ができています。
 戦前に、家の西方の畑の中にたくあん工場ができたのですが、できて2年目頃から、近所の井戸水がしょっぱくなったと聞きました。
 たくあん桶を洗った水を、畑に流したのが原因と言われました。
 戦後、住宅が建つに連れて、家の井戸も枯れ始め、一時は随分困ったものでした。

聞き手:練馬区史編さん専門委員 亀井邦彦
平成2年4月21日号区報

写真:豊島園裏付近の石神井川(昭和30年)