現町名40<小竹町 こたけちょう>

ねりまの地名今むかし

 江戸時代、上板橋村のうち小竹村といった。江戸中期の庚申塔(小竹町1-15)に「上板橋小竹村」とある。会津23万石 保科正之は二代将軍秀忠の庶子であり、その生母お静の方は武州板橋在、竹村の大工の娘といわれている。板橋の近くに竹村という村はなく、それはこの小竹村だとする説が昔からある。練馬で脚気の養生をした五代将軍綱吉の生母 桂昌院は、京都の町娘であったというのだから、小竹村の娘が将軍の寵愛(ちょうあい)をうけても不思議はない。
 昭和7年東京市域拡張による35区制で板橋区が誕生、小竹町となった。同22年練馬区成立のとき、以前から江古田町(現旭丘)とともに練馬支所管内であった関係で、練馬区に編入された。35年地番整理で、1・2丁目に分かれた。
 昭和58年6月24日、区立小竹小学校の下に営団地下鉄(現・東京メトロ)有楽町線の小竹向原駅ができ、小竹の名は一躍有名になった。この駅はまた西武有楽町線の分岐駅でもある。

写真:小竹の森音楽祭(平成16年 小竹小学校)

ねりま区報 昭和59年8月11日号 掲載

このコラムは、郷土史研究家の桑島新一さんに執筆いただいた「練馬の地名今むかし」(昭和59年6月~昭和60年8月区報連載記事)と「練馬の地名今むかし(旧地名の部)」(昭和60年11月~昭和61年4月区報連載記事)を再構成したものです。