旧地名15<武蔵国(むさしのくに) 豊島郡(としまぐん)・新座郡(にいざぐん)>

ねりまの地名今むかし

 江戸時代、現在の練馬区にあたる地域は、武蔵国の新座郡(橋戸村、小榑村)と豊島郡(その他の村)に属していた。
 武蔵国は大化の改新で無邪志国(むさしのくに)と知々夫国(ちちぶのくに)を合わせ一国として成立した。今の東京都、埼玉県、神奈川県横浜市・川崎市の地域である。
 語源については、本居宣長の説が知られる。もとムサの国と称していたのをムサ上(かみ)とムサ下(しも)に分け、前者がサガミ、後者はムサシとなったというのである。蔵をサシと読むのは、地名は好字・嘉名(※)二字を用いよとの官命によった。もともと無理な話で、これが各地でとんでもない地名説話を生むもととなった。
 8世紀半ばには21の郡があった。
 豊島郡は現在の練馬、豊島、板橋、北、荒川、台東、文京、新宿の各区と千代田・港・渋谷区の一部である。
 初見は『続日本紀』で、砥島(としま)とも書く。郡名の由来は、沿岸に多くの島があることによる。
 『和名抄』は郡内の郷を日頭(ひのと)、占方(うらかた)、荒墓(あらはか)、湯島、広岡、余戸(あまるべ)、駅家(えきか)と載せる。練馬・板橋は広岡郷とされている。
 平安末期以来、郡内は秩父氏の流れをくむ江戸氏や豊島氏の勢力下となる。その後、太田、上杉、北条、徳川各氏の支配交代が行われ、明治維新を迎える。明治11年、南豊島郡と北豊島郡に分かれ、練馬の各村は北豊島郡に属した。同29年、南豊島郡は東多摩郡と合併して豊多摩郡となった。
 新座の地名は新羅が転化したものといわれる。『続日本紀』には天平宝字2年(758)、新羅から渡来したひと74人を武蔵国の末開拓地に移住させ、新しく新羅郡と置く、とある。今から1,200年前のことである。平安時代には新座郡と書いて、ニイクラと読まれていた。江戸時代の享保2年(1717)、郡名の呼び方が定められてからニイザというようになった。
 明治22年、町村制の施行で小榑村と橋戸村は合併して榑橋(くれはし)村となった。同24年、それまで埼玉県新座郡に属していた榑橋村と新倉村の長沼・久保原・長久保(大泉学園町8丁目の一部と9丁目)は東京府に編入され、石神井村大字上土支田と合併、大泉村が成立した。

※好字・嘉名 ・・・こうじ・かみょう 縁起の良い字

旧地名15<武蔵国(むさしのくに) 豊島郡(としまぐん)・新座郡(にいざぐん)>

写真:村制当時の練馬区全図

ねりま区報 昭和61年4月1日号 掲載

このコラムは、郷土史研究家の桑島新一さんに執筆いただいた「練馬の地名今むかし」(昭和59年6月~昭和60年8月区報連載記事)と「練馬の地名今むかし(旧地名の部)」(昭和60年11月~昭和61年4月区報連載記事)を再構成したものです。