現町名16<豊玉 とよたま>

ねりまの地名今むかし

 豊玉地区は上(かみ)、北、中、南の4町からなる。もとは一つの村、一つの町であった。
 江戸時代は中荒井(なかあらい)村といった。アライは新井とも新居とも書く。中野区新井、足立区西新井は、薬師や大師でよく知られている。地名のアライは歴史的に古く、中世のころ、新しく開墾して人が住むようになった所をさす。
 永禄2年(1559)北条氏が編んだ『小田原衆所領役帳(おだわらしゅうしょりょうやくちょう)』に「江戸廻(まわり)、中新居」とある。該当地はここよりほかにない。ナカは隣村の「中村」の中か。中村の開村はさらに古く、中(村)の新居という意味で呼ばれた地名であろう。
 江戸時代の小名(こな)に本村(ほんむら)、徳田(とくでん)、北荒井(きたあらい)などがある。徳田は年貢を免れて得をした田があった所という。中新井や北新井、徳殿(田)、下新街(しもしんがい)は今も公園やバス停の名前に残っている。
 明治になって中新井村となる。同9年、豊玉小学校が南蔵院(なんぞういん 中村1-15)を借りて開校した。学区は北豊島郡の中新井、中村、谷原などと東多摩郡の鷺宮、江古田など、広い区域だった。校名は両郡の名をとって命名された。一時はホウギョクと音読みしたこともある。当時の公立学校の経費は村の負担で、運営は苦しかった。村では荒れた官有沼地を開墾耕作して、収穫は学校費用の一部にあてた。田んぼは学田(まなびた)といわれた。今の学田(がくでん)公園である。
 昭和7年、板橋区中新井町となる。関東大震災後の都市化の波はここへも押し寄せ、人口は急増した。村特産の練馬大根はこうした影響をモロに受け、さらに病虫害の被害によって全滅した。農村から市街地への本格的な町づくりがはじまった。土地区画整理事業と併行して地番整理が行われた。新しい町名は、親しんできた小学校の名をとって豊玉とつけられた。昭和15年のことである。

現町名16<豊玉 とよたま>

写真:学田公園野球場(昭和37年)

ねりま区報 昭和60年3月1日号 掲載

このコラムは、郷土史研究家の桑島新一さんに執筆いただいた「練馬の地名今むかし」(昭和59年6月~昭和60年8月区報連載記事)と「練馬の地名今むかし(旧地名の部)」(昭和60年11月~昭和61年4月区報連載記事)を再構成したものです。