旧地名3<中新井村 なかあらいむら>

ねりまの地名今むかし

現在の豊玉上、豊玉北、豊玉中、豊玉南(現町名は16 豊玉を参照)

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旧地名3<中新井村 なかあらいむら>

 永禄2年(1559)、北条氏が編んだ『小田原衆所領役帳(おだわらしゅうしょりょうやくちょう)』に「江戸廻(まわり)中新居」とある。新居は新井とも荒井とも書き、中世に新しく開墾して人の住む所となった地をいう。
 関東にアライと言う地名は多い。古い開拓地らしく、いずれも川や用水路とのかかわりが深い。『中新井村誌』は村名の由来を“新居の中の村”と解している。『新編武蔵風土記稿』は中荒井村とし、小名(こな)を「本村(ほんむら)」、「徳田(とくでん)」、「神明ケ谷戸(しんめいがやと)」、「原」、「北荒井」、「中通(なかどおり)」の6つ記載している。
 「本村」は最初に開墾がなされた地で、のちに村の中心となる。今の氷川神社(豊玉南2丁目)を中心とする一帯で、南方に中新井川沿いの水田が広がる。
 「徳田」は江古田村との境、この辺りに、むかし検地を免れ、得をした田があったからだという。
 「神明ケ谷戸」は神明社がまつられていた地というが、明治以降その社とともに地名も消え、今は判らない。村の西南部と見なされる。
 「原」は一般に広くて平らなところを指す。村の西北部にあたり、中村の小字、原と接する。
 「北荒井」は今の武蔵大学付近で、北新井公園の名がある。
 「中通」は下新街(しもしんがい・・・現在の豊玉北4・5丁目、豊玉上2丁目の一部)から沼袋へ通じるバス通り。むかし、新井薬師への参詣(さんけい)道であった。
 明治初年、地租改正時の小字は13あった。中に「弁天」、「於林(おはやし)」、「新街(しんがい)」などの地名がある。「弁天」は今の市杵島(いちきしま)神社(豊玉北2丁目)のこと。於林は、江戸幕府の官林があって、立入、伐木を禁止したお留山(とめやま)であった。於林稲荷(現在の名称は「林稲荷神社」 豊玉北1丁目)がある。
 「上新街(かみしんがい)」、「下新街」は清戸道に沿ってできた新しい町並みで、「下新街」は目白通りのバス停にその名が残る。村は昭和7年、板橋区中新井町1~4丁目となり、その後、土地区画整理事業の完成で、昭和15~16年に、現町名となった。

ねりま区報 昭和60年11月21日号 掲載

このコラムは、郷土史研究家の桑島新一さんに執筆いただいた「練馬の地名今むかし」(昭和59年6月~昭和60年8月区報連載記事)と「練馬の地名今むかし(旧地名の部)」(昭和60年11月~昭和61年4月区報連載記事)を再構成したものです。