現町名8 <練馬 ねりま>

ねりまの地名今むかし

 町名の「練馬」が生まれたのは昭和38年のことである。前年制定された住居表示制度の、都内実施第1号であった。
 江戸時代から明治、大正までここは下練馬村といった。昭和4年、村は一時町制をしいたが、同7年の板橋区成立によって、南町4、5丁目となった。
 昭和22年8月、板橋区練馬支所管内が独立して「練馬区」が誕生した。11万区民長年の悲願であった。
 「練馬」という地名は古い。文明9年(1477)、練馬、石神井の領主豊島泰経は、太田道灌を攻めて両城を打って出たと、道灌の書状や『鎌倉大草紙』という本に書いてある。練馬城は今の豊島園のところである。
 さらにさかのぼって8世紀頃、武蔵と下総を結ぶ官道に「乗瀦」という宿駅があった(出典『続日本記(しょくにほんぎ)』)。これをノリヌマと読んで、ネリマに訛ったとする説がある。白山神社(練馬4-2)には樹齢800年といわれる大ケヤキ(国の天然記念物)が、また阿弥陀寺(練馬1-44)には区内で2番目に古い鎌倉時代の板碑がある。近くには古鎌倉道(こかまくらみち)の伝承もある。「乗瀦」が練馬であっても少しも不思議はない。
 練馬の由来に、むかし馬どろぼうが、盗んで集めた馬を調練したところだという話が有名である。広い原野を色とりどりの馬が駆けめぐるさまは、夢があって楽しい。
 戦国時代の記録に「練間」と書いたものがある。地名には当て字が多いからどちらが正しいともいえない。
 練馬は練場(ねりば)だとする説もある。この辺は古代に土器を作る粘土が豊富で、材料の土を練るのに最適の場所であった。貫井(旧上練馬村)の遺跡から都内では珍しい窯場跡が発見された。ともかく練馬の地名の起源は、はるか歴史のかなたにありそうだ。

現町名8 <練馬 ねりま>

写真:練馬消防署望楼から練馬駅を望む(昭和28年)
ねりま区報 昭和60年1月11日号 掲載

このコラムは、郷土史研究家の桑島新一さんに執筆いただいた「練馬の地名今むかし」(昭和59年6月~昭和60年8月区報連載記事)と「練馬の地名今むかし(旧地名の部)」(昭和60年11月~昭和61年4月区報連載記事)を再構成したものです。