照日塚

ねりまの伝説

 石神井三宝寺の住職六世定宥は所用があって京に上り、折から催された宮中の8月15日夜の月見の御宴に侍した。列席の雲上人たちはそれぞれ得意の詩歌をよみ、披露しあった。定宥も又、かねて発句をよくするの誉が高かったので、是非にと所望され、やむなく筆をとって、先づ「月は無し」と。並みいる人たちはこの満月のすばらしい夜に月は無しとは何事か、といぶかり、驚き、そしてなかば下げすむ気持さえ起こした時、定宥はゆっくりと筆をおろして「照日のままの今宵かな」と加えた。

 
 この句が一同に披露されるや、今までの嘲笑は驚嘆とかわり、今宵の秀逸これにまさるものなしと、ご覧に供した所、おほめの言葉を賜って、定宥に照日上人の号をくだされた。この照日上人のお墓を照日塚と言い三宝寺池の北、丘陵の上にこんもりとしている小丘のことである。この塚は別に姫塚とも言われ、石神井城落城の時入水した城主泰経の娘照姫の墓とも言われている。
 三宝寺誌によれば、定宥は天文18年(1549)11月19日寂と記されており、天文16年(1547)後奈良天皇の綸旨によって、勅願寺となったとの事なので、或いはこうした時の配慮によるものだろう。

昭和53年8月21日号区報

写真:照日塚(姫塚 平成30年5月 石神井台1-33)