(7)都市化と都市計画
都市計画制度の誕生
わが国に初めて都市計画に関する法律ができたのは大正8年4月で、市街地建築物法と同時であった。建築物法は同年の12月から実施されたが、都市計画法の実施は翌9年1月からである。そして都市計画区域・用途地域・防火地区あるいは土地区画整理などの付属規定があいついで制定された。
ただし、これらの都市の建設整備に関する法律としては、明治21年8月に首都東京の改造を目的とする東京市区改正条例が公布されていたのであるが、この条例は、江戸時代以来そのままの姿で明治時代を迎えた東京の市街地15区の改造が主目的であって、道路・運河・河川・港湾・市場・公園などの都市施設の新設改良などが約20年間にわたって実施された。しかし一方、東京の発展につれ、産業の集中と同時に人口の急速な集積が見られ、市区改正のような姑息な法制では何ともすることができなくなって、大正8年に初めて、都市づくりの基本的法律が出されたのである。
大震災後の人口急増と昭和2年の道路計画
江戸時代以来、純農村地帯であった練馬地区が都市化現象を現わし始めたのは、大正12年の関東大震災後のことである。東京市域に比較的近い中新井村や練馬町などは、震災を境として人口が倍増し、さらに市域拡張の2年前の昭和5年には、3~4倍の人口増を示すに至った。大正13年、箱根土地株式会社が練馬区域から埼玉県にかけて広大な郊外住宅開発計画をたてたのは、近郊開発の実現を示すものであって、東京の都市計画は旧15区と昭和7年10月に新市域となった広大な周辺地区とを合わせて、新しい町づくりが始まったのである。
街づくりに最初に必要なものは、道路計画である。昭和2年8月に、大震災復興道路計画が焼失区域を対象として決定されると同時に、都心と郊外との交通を円滑にするため、幹線放射道路と幹線環状道路とが決定をみた。このうち、練馬区に関係あるものを掲げよう(地名はいずれも旧地名)。
放射道路
放射6号線…中野区本町通一丁目~板橋区石神井関町二丁目(青梅街道)
放射7号線…淀橋区戸塚町一丁目~板橋区西大泉町(目白通り・十三間通りともいう)
放射8号線…豊島区池袋一丁目~板橋区練馬土支田町一丁目(川越街道)
幅員はいずれも25mで、3路線の総延長は3万6千962mに及んだ。事業執行者は、東京府知事である。
環状道路
環状7号線…大森区大森一丁目~江戸川区葛西二丁目(幅員25m)
環状8号線…蒲田区羽田鈴木町~板橋区志村長後町(幅員22m)
幹線放射・環状道路計画に対し、補助線道路が、さらに同時に計画された。練馬区内についてみると、つぎのとおりである。(地名はいずれも旧地名)
33…石神井立野町~石神井関町二丁目、37…中新井町四丁目~同三丁目、38…杉並区馬場二丁目~練馬向山町、39…杉並区阿佐ヶ谷二丁目~練馬高松町一丁目、41…石神井関町二丁目~東大泉町、44…淀橋区下落合一丁目~石神井関町一丁目、45…中新井町三丁目~上石神井町二丁目、46…石神井谷原町二丁目~南大泉町、48…中新井町三丁目~上板橋七丁目、49…練馬向山町~練馬北町一丁目(以下、路線番号56号に至るまで総延長約5万m。幅員は11~15m、大部分は東京府知事執行である)
今日、騒音問題などで環境の改善を求められている環状7号線が全線竣工(しゅんこう)したのは昨年の春であった(※1)。環状8号線とともに昭和2年に都市計画決定をみてから約60年もかかっており、しかも環状8号線の完成までにはあと10年くらいかかるであろう(※2)。都市計画が住民に理解されにくいことと、地方財政の乏しいことに、地方自治体は今後とも苦労することであろう。
成功した中新井町土地区画整理事業
都市計画法による土地区画整理事業は、良好な街区をつくり、排水を完全にし、小公園をつくり、住みよい住宅地を造成するとともに、商業地をも提供しうる街づくりの基本手法である。練馬区内では、すでに成立していた石神井をはじめに昭和7年ごろから土地区画整理組合設立の活動が活発になり、中新井町第一~第三の各組合は昭和8~10年に成立した。ことに、中新井町土地区画整理組合(3団体)の成功は、めざましいものがあった。
(※1)昭和60年1月に葛飾区の区間が供用開始されたことで、全線が開通した。
(※2)平成18年5月に全線が開通した。

昭和61年12月1日号区報
写真:建設当時の環状7号線(桜台陸橋付近) 昭和37年頃
