(5)練馬の農業(その2)
農業の最盛期
練馬大根のたくわん漬け(沢庵漬け)は、明治以後、海外にまでその名を知られるほど有名だった。軍隊での常備食として重用されたこともあって、その生産には、いよいよ拍車がかかった。大正期には、石神井・大泉方面でも養蚕や茶に加えて、大根栽培が活発に行われている。
折しも、東京近郊での市街化は着実に進んでいた。大正7年刊の『東京府北豊島郡誌』には、すでにこのころ、「郡の東部一帯は年々農地を失い、今や純然たる農村は、長崎村と現板橋区城西部の村々、そして現練馬区域の諸村である」との要旨が記されている。
これは、練馬の側からすれば、都市への距離が近づいたことになる。その結果、それまでの東部隣村地に代わり、練馬地域で新鮮な野菜を供給できるようになった。こうした状況を受けて、区域の村々では、以前から作られていた大根、ナス、ニンジンなどに加え、キュウリやトマトといった新たな蔬菜(そさい)類の試作や、新種改良にも力が注がれた。
まさに、練馬の農業にとっては、このころが最盛期であったとみることができよう。
都市化への試練
大正から昭和にかけて鉄道が開通し、市街化の波はようやく練馬の村々にも押し寄せようとしていた。特に、関東大震災後の人口の流入は、中新井村や下練馬村など、練馬東部で著しい。明治初年から大正12年まで、ほとんど横ばいであった人口が、その後昭和5年までの7年間には、中新井で約3倍、下練馬で2倍強に達している。
こうした状況下で昭和7年には、練馬の村々は東京市に編入され、村から町への第一歩を踏み出すこととなった。不便な村から便利な町への転身は、村人にとっても大いに歓迎されるべきことであった。すでに、農地の効率的な利用をめざした耕地整理が進められる一方、市街化を前提とした土地区画整理も一部に計画され、都市と農業の共存共栄を理想とする、新時代の到来かと思われた。しかし、それもつかの間、昭和8年には、練馬大根が、干ばつから誘発されたバイラス病で、打撃を受けた。以後、連作あるいは、化学肥料の乱用などの弊害により、練馬大根の生産は衰退の一途をたどることになる。
これよりも早く、昭和4年に、別の角度から練馬の大根に警告を発していたものがある。当時の北豊島郡農会内で刊行された『北豊島郡の園芸』に、「交通の発達から、最近では、東京の市場に三浦の大根が出回っている。これは、団体による共同出荷や、品物の精選が行われ、価格、評判ともに練馬大根をしのいでいるためである。このままでは、やがて練馬大根は三浦大根にとって代わられるであろう」という内容が記されていた。この昭和4年には、世界恐慌が起こり、既に生産を減少しつつあった、石神井・大泉方面での養蚕の衰退は決定的になった。まさに練馬全域が新たに試練の時代を迎えたといえる。
以後、篤農家 鹿島安太郎らの努力により、大根に代わるものとして白菜などへの作付け転換が一部で行われていくが、時代は次第に、戦時色を増し、野菜の試作さえも思うに任せない状況となった。

戦後の農業
戦中、戦後を通じて行われた供出制度(作付けや出荷の割当制度)下で自由を奪われていた農業も、昭和20年代後半以降、キャベツ栽培など(一時期には畜産も)が行われ、再び活気を取り戻していくと同時に、人口流入も著しいものとなった。
昭和30年代には、計画的な市街化を目指した土地区画整理も、以後手付かずとなり、住宅の乱立に伴い、農地は失われる一方となった。昭和40年ごろには、水田が消滅し、全体の農地面積も、昭和30年に1千866haほどあったものが、60年には564haに激減している。
現在、区では農産物の供給という本来の機能に加えて、自然環境の保全、防災空間、憩いの場という点から、さまざまな保護育成策を講じている。また農業協同組合・普及所・農業団体を核として、後継者の養成などにも努力が重ねられている。
こうした中で生産されている主な作物は、キャベツ(生産面積の33%)、芝(同11%)、植木(同10% いずれも昭和60年8月1日現在)となっている。特に、キャベツは、秋口には都内の食卓の60%をまかなっている。
昭和61年10月1日号区報
写真:田園風景(春日町 石川橋付近) 昭和17年
