(4)練馬の農業(その1)ー明治期までー
川沿いの水田開発は中世以前から
練馬区域は、その地形上、中小の川とその支流の作り出す小さな谷が多く、そこに古代から人が住みついていたことが遺跡調査を通じて知られつつある。
おそらく湧水(ゆうすい)を利用した谷間の水田は早くから開かれていたものと思われるが、詳細は分からない。しかし、中世には旧荒川下流域(現隅田川沿い)に勢力を占めた豊島一族が石神井川沿いにも進出し、後には豊島宗家の本拠地となっている。
石神井城の置かれた三宝寺池周辺や練馬城のあった豊島園(※)周辺はそれぞれ水利上重要な土地柄だったことが推測される。さらに、石神井川は旧荒川西沿いの水田開発に当初から大きな役割を果たしていたものと思われる。
石神井川とともに区域の水田所在地として重視されていた白子川沿いには、中世中期から近世にかけて荘氏、加藤氏、さらに萩野・見留・高橋・小美濃・滝島・内堀諸氏などによる開発が進められたようである。
上水、用水の開発による水田拡張
米は長い間金銭の代用ともなり、また農民にとって年貢や換金性が高い作物として重視されていた。このため、水田の少ない練馬区域の村々でも機会のあるたびに水田拡張に力を尽くしている。
元禄9年(1696)に玉川上水から引かれた千川上水が、宝永4年(1707)には流域の村々への水田補助水として利用できることとなった。練馬区域では石神井川と旧中新井川に沿う水田地帯への増水を目的に、区内の村々への分水として少なくても7か所の分水口が設けられている。その大半は古くからある自然の水路や湧水池まで新たに水路を築いて結び、これが分水の際の典型的な方式であったようにも思われる。
明治4年には田無地内から富士街道沿いに田柄用水が引かれた。これはそれまで雨水などを利用していた旧田柄川沿いの水田拡張に役立ち、余水は石神井川を通じて板橋・王子方面での用水ともなっていた。

江戸時代に特産となった大根
水田に比べて圧倒的に多かった畑地の利用が近世以降の練馬の農業を特徴づけている。しかし、中世以前には、一般に関東地方でも行われたという焼畑や、馬の生産が練馬地域ではどうであったか、詳細は知られていない。
江戸時代には陸稲(おかぼ)や麦類・イモなど穀物栽培が盛んに行われる一方、上・下練馬村を中心として大根やゴボウのような根菜類に特産を得ている。
江戸時代中期には商品経済が農村部にも浸透し始め、各地に地場産業の発展をみているが、練馬では大根を加工し、たくわん漬けとして売り出している。
これは一つに黒土部の表土が深いという土地柄を生かしたものであったが、さらに交通機関の発達していない当時、江戸という大消費地からの距離が一般の生鮮野菜の生産には不利だったということが大きな条件として挙げられる。
もっとも西部の石神井・大泉地域では穀物を中心とし、江戸時代後期から紺染めの藍(あい)生産や一部に醤油(しょうゆ)醸造なども行われた。
明治期の養蚕
明治に至って殖産興業政策の影響を受け、養蚕と茶の生産に力が注がれている。
特に養蚕は、石神井地域に興就社、東京同潤社という製糸工場までつくられ、東京近郊の養蚕地域として有望視されていた。

(※)現在の都立練馬城址公園
昭和61年9月1日号区報
写真:大根干しと田園風景 大正末期~昭和初期
